第2話
風呂から出てキッチンに向かうと、魚の塩焼きの匂いに鼻をくすぐられた。
「あっちゃん、お待たせ。冷酒でいい?」
妻の亜里砂は俺に気づくと、二重まぶたを細めて頬にえくぼをつくった。
……そう、“妻”だ。
高校の同級生だった亜里砂とは、去年結婚した。
結婚指輪は買ったけど、お互い職業柄つけていない。
披露宴の写真と一緒に部屋に飾ってある。
交際中はフラットな気持ちだったが、籍を入れてからは俺の方が燃え上がってしまった。
亜里砂は容姿こそ中の中の中だが、同年代とは思えないほど気立てが良い。
学生時代はアウトドア好きの変わり者で通っていたが、魚のはらわたを綺麗に除けるし、三枚おろしもできる。
変電所の送電トラブルで夜に停電したときは、俺と親父が慌てる中、亜里砂だけ冷静に懐中電灯とラジオを出して、酒と肴まで用意してくれた。
現在は、アウトドア好きが高じて林業に従事している。身長150cm未満なのに、大柄な男達に負けないくらい働いているらしい。
肝が据わって、負けず嫌い。
亜里砂を山で遭難させようと企めば、返り討ちに遭うかもしれない。
そんなやつ、俺が制裁を加え……いや、何でもない。
「畑のトウモロコシも採れたんだよ。はい、塩ゆで」
テーブルに出されたトウモロコシは、まだ湯気が出ている。
鮎の塩焼きと冷酒で、夕飯。
親父は「先に食ってろ」と風呂に入ってしまった。
「今日もおつかれさまでした」
「おつかれさまでした」
猪口を軽く上げて、乾杯。夕食の儀式みたいなものだ。
「親父さんに何かあったの?」
亜里砂に訊かれ、俺は酒を吹き出しそうになった。
「……あったんだね?」
俺は黙って首肯する。
「やっぱり。あ、当ててあげる。鮎をくれた人だよね?」
それにも黙って頷いておいた。
「やっぱり。さっき会ったとき、親父さん、“純烈”なんか口ずさんでたよ」
「まじか」
親父が歌を歌うなんて、珍しい。しかも、最近話題のムード歌謡のグループの歌を。
「ぶっちゃけ、あっちゃんはどう思う? 親父さんの現状」
「相手に迷惑をかけなければ良いんじゃないかな」
「……あっちゃん、フラットだね」
全然フラットなんかじゃない。
バケツの中で尾びれを動かす鮎を思い出した。
おふくろは、俺が中学生のときに癌で他界した。
後を追うように、祖父母も急性心不全であっけなかった。
親父は俺の面倒を見ながら、店も続けてくれた。
俺の誕生日には、おふくろの遺品である製菓の本を見ながらケーキを焼いてくれたっけ。ハンドミキサーがないから手動でホイップクリームを泡立てるという技を見せてくれた。
定休日には趣味の陶芸や畑仕事をしているが、亜里砂と比べると親父は内向的だ。
親父は、もっと自由になってくれて良い。相手に迷惑をかけなければ。
亜里砂がお酌をしてくれた。
透明な酒が猪口に波紋を広げる。
「ごめん!」
「大丈夫。こぼれていないから」
親父はバケツの中の鮎であり、井の中の
コップの水が揺れてこぼれるような、ショックな出来事が起こらなければ良いのだが。
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