コップの中の漣 ~親父だって恋をする~

紺藤 香純

第1話

 祖父の代から続く蕎麦屋「ふじみ庵」は、今日も盛況だ。

 地元の常連客が主だが、観光客と思しきお客様もいる。

 店内はにぎやかだ。お客様の声にかき消されまいと、店主である俺の親父も厨房で声を張り上げる。

篤志あつし! 窓際のテーブル! 蕎麦湯がないぞ!」

 ……俺、隣にいるんですけど。

 すみません、と親父に返事をして、蕎麦湯を持っていく。

 窓際のテーブルは3つあるが、問題のテーブルはすぐにわかった。さすが親父。厨房からでも気づくとは。

 ひとりがすでに席を立ち、もうひとりのお客様はぼんやりと窓の外を眺めている。

「失礼致しました。蕎麦湯でございます」

 お客様は、弾かれたように顔を上げた。

 常連客ではないが、観光客でもなさそうだ。

 俺と同じ25歳くらいの男である。

 美男子ではないが、和の雰囲気がある。

「空いたお膳はお下げしてもよろしいでしょうか?」

 俺が訪ねると、男は「かたじけない」と答えた。雰囲気だけでなく口調も和風だ。

 空いた器を手にして再度男を見ると、彼は蕎麦猪口に蕎麦湯を注いでいる。優雅な手つきを、吸い寄せられるように見つめてしまった。蕎麦猪口に生じた蕎麦湯の波紋さえも風流に感じてしまった。

 篤志、とまた親父に呼ばれ、我に返った。

「……すみませんでした。失礼します」

 テーブルから離れ、またあの男を見てしまう。

 男が蕎麦猪口に口をつける様が、まるで日本酒を嗜んでいるかのような雰囲気を醸し出していた。

 艶っぽいというのかいきというのかわからないが、つい目を止めてしまう不思議な魅力のある男だった。



 男については、すぐに知れた。

 甘露かんろという名で、歳は俺と同じ25歳。近所のこぢんまりとした旅館「三葉みつば旅館」で事務のアルバイトをしている。趣味は川釣り。

 親父が三葉旅館に出前に行った際に、本人から聞き出したらしい。

「鮎をもらっちまった」

 生きた鮎の泳ぐバケツを抱える親父は、むさ苦しい顔を緩めて、なんとも嬉しそうだ。

 苦労ばかりしてきた親父が、だらしかく顔を綻ばせるなんて、初めて見た。

 息子としては、親に少しでも気を楽にしてもらいたいところだが、今回は素直に喜べなかった。

 どうしたんだ親父、と訊きたいが訊けない。

 バケツの持ち手を持つのではなく、抱える動作。

 いつも出前は俺が担当していたが、今回はなぜか親父が三葉旅館行きたがった。

 鮎が尾びれを揺らし、バケツの中に波紋が広がった。



 親父は長年店を仕切ってきた観察眼で、窓際のテーブルの状態まで瞬時に気づく人だ。

 甘露のあの仕草も厨房から見ていたに違いない。

 そして、惹かれてしまったのだ、多分。

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