第25話 王たる不幸

 平穏な町並みとは裏腹に、クローネスの心は慌ただしく波打っていた。

 皇帝を追っていた間者との連絡が途絶えて、早一週間。その上、新たに出した斥候までが帰ってこない。

 

 人だけでなく、鳥たちまでも――

 

 おかげで、クロノスは皇帝の動きを見失ってしまった。

 リルトリアたちも同じなのか、ここ最近は慌ただしい動きが目立つ。律儀に侵攻にやっては来るものの、陣容のほとんどは反対に向けられていた。


「……はぁ」

 

 王女の問題は他にもあった。

 このあとの予定を考えると、意図せず溜息が漏れてしまう。

 かといって拒めるものでもなく、クローネスは城に戻ると、予定通り父の寝室へと足を運んだ。

 

 近頃体調が芳しくないとしつこく侍女から聞かされた以上、顔を見せないわけにはいかない。


 厳重に警護された一室に踏み入れると、父だけでなく、大勢の使用人に歓迎されてしまい、クローネスは辟易してしまう。

 親子水入らずと気を遣われても、血の繋がりだけで会話が弾む道理はない。彼女にとってはまだ、出会って間もない存在なのだ。


「おぉ……、来てくれたのか、クローディア」

 

 その上、母と間違えられては堪らない。


「……クローネスです」

 

 訂正すると、父は悲しげに目尻を下げた。


「それは、済まなかった……クローネス」

 

 名前を呼ぶのにも、ぎこちなさが感じられる。無理に微笑む以外に、クローネスに浮かべられる表情はなかった。

 病といってもエディンが聖寵で聴いた限り、身体に異常はなかった。おそらく、心の問題だろうと。

 

 聞き及んだ噂によれば、父は権力を盾に無理に結婚を迫ったらしい。

 それなのに、手に入れた妻に先立たれ、忘れ形見のクローネスは命を狙われた末、行方知れずになった。

 

 それでも、父は狂うことなく王としての責務を全うしていた。

 

 それが今ではこの有り様。

 四十に見えないほど顔に皺が蔓延り、髪も薄くなっている。

 

 ――全てはクローネスが原因だ。

 

 生きた娘に自分の愛した妻の姿を重ねる度に、父は喪失感に襲われる。


 先の戦いでも父は玉座を放り出し、兵を率いてクローネスを助けに動いた。

 それは父親としては正しかったかもしれないが、王としては間違った行為であった。

 王が一人の人間としての感情を優先してしまえば、他の者に示しがつかなくなる。

 もし医者や兵が、自分はその前に一人の人間だと言い出したら、国としては堪ったものじゃない。


「……済まない、ネリオカネル」

 

 急に、父がこの場にいない弟に謝りだした。

 まただ、とクローネスは訝る。自分を母と間違えたあと、父は高い確率でネリオカネルに謝る。


「……ネリオカネルを呼びましょうか?」

 

 訊いてみるも、父は首を振る。質問を重ねたところで、沈黙に逃げられる。

 そして、お体に障ると耳ざとい使用人がクローネスに退出を願う。


「はぁ……」

 

 溜息一つ、諦めの合図。父のことはもうどうしようもない。冷たいのかもしれないが、クローネスとしてやってあげたいことは何もなかった。

 娘として傍にいても、苦しめるだけだ。クローネスの姿は母を想起させ、自分の犯した所業を、取り返しのつかないことを思い出させる。

 

 ――本当に国の為を思うのなら、私はいないほうが良いのかもしれない。

 

 クローネスは自嘲する。

 自分がいなければ、父があそこまで弱くなることも、帝国に攻められることもなかった。

 

 ――王女じゃなければ……。

 

 レイドと一緒にいられた。リルトと、争わないで済んだ。

 

 ――私が王女だから……。

 

 レイドは離れた。リルトは敵になった。


 ――でも、王女じゃなければ……。


「――クローネス様」

 ぐるぐると回る思考を咎めるように、声をかけられた。

「どうしたのですか、このようなところで」

 

 指摘され、自分が中庭にいることを知った。無意識に、外に出たかったのかもしれない。


「リックこそ、なにをしているの?」

 

 中年の庭師は木の上にいた。


「ちょっと早いですが、ミオネラの実が生っていましたので」

 

 クローネスにとって、リックは森を教えてくれた先生でもあった。


「食べるにはまだ酸っぱいですが、香りを楽しもうと思いました」

 リックはベル型の身を一つ放り落とした。

「よろしければどうぞ」


「ありがとう」

 

 包皮は薄いオレンジとまだ若い。近づけてみると、酸っぱそうな香りが鼻孔をくすぐる。それがなんだか、クローネスの食欲を刺激した。


「……食べるんですか?」

 下りてきたリックは、いそいそと皮を剥いているクローネスに忠告する。

「鳥もつつかないほど、酸っぱいですよ?」


「そう? ん……酸っぱい……けど、美味しい」

 嘘ではないようで、クローネスはゆっくりと咀嚼している。


「……森が恋しいですか?」

 穏やかな面持ちで見守っていたリックが、突然口にした。


「どうしたの、急に」


「いえ、少し昔を思い出しまして」

 森にいた頃は、リックも他の者たちもクローネスに対して畏まっていなかった。

「憶えておいでですか? 一緒に森を探検したことを」


「……えぇ、色々と恨んでもいるわよ? 変なものを、たくさん食べさせられた」

 悪戯っぽく、クローネスは頬を膨らませる。


「いや、それはまぁ……すいませんでした」

 冗談に乗ってか、リックは垂直に頭を下げる。


「でも、楽しかったな」

 

 目に付く果実や木の実をもいでは口にした。動物たちに安全は確かめていたものの、味覚の違いからか美味しくないものもあった。

 特に、リックが見つけてくる物は酷かった。


「どうしたの?」

 

 リックは、今にも泣きそうな顔をしていた。


「……ゴミが目に入ったようで」

 

 目尻を拭って誤魔化そうとするも、嘘が下手過ぎる。自覚があるのか、リックは咳払いをして困ったように頬を歪めた。


「いえ、申し訳ございません……笑った顔が、あまりにクローディア様に似ておられましたので」

「……そう」

 

 クローネスに返せる言葉はなかった。

 彼女にとって、母親は知らない女性でしかないのだから――

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