第3話
「さあ、出かけよう」
紅は何が不満なのか、黙ったままでやっぱり錠前屋に視線を据えている。
「何を膨れているんだ。置いていってしまうぞ」
「構わないもの」
「どうした。機嫌が悪いな」
物言いたげに唇を動かした紅の頭に手を置いて、錠前屋は草履を脱いだ。
「早く支度をしないと、本当に置いていくからな」
「別に平気だもの」
泣き出してしまいそうな紅の声を背中に残して、錠前屋は溜息を吐いて玄関へ向かった。
「まったく、何を拗ねているんだか…」
店先へ続く襖に手をかけて思わずぼやく。
「男やもめは大変だねえ」
半ば開きかけた向こう側から、暢気な声が聞こえて、錠前屋はがっくりとうなだれた。
聞きなれた声、見慣れた顔。上り口に座り込んだ男が、片手を突いて振り返りながら、にやりと笑った。
「誰がやもめだ」
「女房もいないのにすっかり所帯染みてきたって、煙草売りの姐さんが嘆いてたってよぅ」
「大きなお世話だ。何しに来た」
「何しに来たとは、随分な。忙しい中遊びに来たってのに」
「忙しい奴が昼日中から出歩くか」
「お互い様」
黒目がちの目が三日月形に笑う。同じ通りで居酒屋を開いているこの若旦那、暇さえあればふらりと錠前屋に入り浸っているのだ。
「紅は、随分おっきくなったな」
鎖骨を掻いて、居酒屋は欠伸をした。美丈夫な見た目にそぐわない振る舞いに、錠前屋はつい眉間を擦る。
「会ったのか?あいつ、今日は虫の居所が悪い」
「噂通り、立派なお父さんぶりだねえ。そりゃ煙草売りの姐さんも嘆くわな」
からかうように錠前屋を見てくくっと笑った。
同じ煙草売りの姐さんが、若旦那は口さえ開かなきゃいい男なんだけどね、とぼやいていたのを教えてやるのが親切かと、錠前屋は遠い目をする。
「それはそうと、どうしたよ。お前らしくもない」
「何が?」
「紅だよ。随分手間かけたのに、売らねえなんて。まさか情が移ったなんて言う気じゃないだろうな、錠前屋?」
錠前屋の手から蜻蛉の形の錠を攫って、ためつすがめつしながらちらりと視線を寄越す。
「お前に言われると、なんだか人を売れと言われているような気がしてくるから不思議だな」
「そりゃ随分だ」
満足げに蜻蛉錠を床に置いて、不意に真面目な顔つきになる。
「別に、お前が紅を可愛がってもいいけどよう。あの子は自分とこいつらが、同じだって知ってるぞ」
「隠しているわけでもないからな」
「紅が、なんで自分は錠として使われないのかって、不安そうな顔しているのは知ってるか?」
「不安がる理由が分からん」
「自分は失敗作だから、今に捨てられるんだって言ってたぞ」
錠前屋は奥を振り返った。暗い廊下に紅の小さな姿は見えない。
「お前は気に入ったものは自分で使うし、出来のいいものは売るだろう。お前が一度も使わないもの、売りに出さないものは、錠として成り立たないものだってことを紅は理解してるんだ。壊れた錠なら直してもらえるが、端から使い物にならねえ錠は、溶かされるのが精々だって。可哀想じゃねえか」
「紅は、失敗作じゃない。ただ…」
錠前屋は腕を組んであちこちに視線を投げると、下を向いて息を落とした。
居酒屋は、この男にしては随分辛抱して黙っていたが、指先でせわしなく床板を叩くと、おいおいおいと声を上げる。
「煮え切らない野郎だな、何なんだ」
低く唸って、錠前屋は足元に言葉を吐いた。
聞こえない、と居酒屋が身を乗り出して眉をしかめる。
「鍵が…作れないんだ」
「ははあん。錠があれじゃあ、鍵は決まっているもんなあ」
居酒屋が顎を擦って頷いた。
「別に…別にそういうわけじゃない」
何を想像されたのか、容易に予測がついて、錠前屋は慌てて居酒屋の傍に座り込んだ。
「さすがにそれじゃあ、あんまりだと思って、仕掛けを指に作ったんだが。予想外のことがあってな」
「何だ?」
「紅が、成長するとは思わなかった」
「生きた錠前なんてけったいなもんを作り続けているお前が、何を今更」
「今までの錠は、育ったことなんてなかったんだ。だから鍵はいつまでも同じものが使えた。開けられない錠なんて、売り物にならないから」
「そりゃ当然だわな」
「なのに。紅はあっと言う間におっきくなった。作ったときは赤子の形だったのに」
「俺はお前がどっかの女に押し切られて、テメエの子供でもないややを引き取らされたのかと」
ぎろりと睨みつけた錠前屋の視線に、居酒屋の苦しい笑いが空を混ぜる。
「作ったときは指に合っていた鍵が、たった、ひと月で使えなくなった。幾度か鍵を作り替えたんだが、育つ速度が速すぎる」
「錠はあるけど、鍵はない、と」
「こうなったら、成長が止まるまで、待ってみようかと思ったんだよ」
「えらく気の長い話だな」
「じゃあ、捨てられたりしないのね?」
ぎくりとして、二人は慌てて声を探した。
「いつからそこにいた、紅?」
襖の後ろから、小さな顔が覗いている。
「紅がおっきくなった、ていうとこから」
錠前屋を伺うようにじっと見てから、紅はそろりと襖の陰から出てきた。両腕には、まだ金魚鉢を抱いている。
「紅はどこかの女の人から渡されたの?」
首を傾げた所為で、黒髪が一筋、水に落ちる。
「あぁ、それは、その、何でもないんだ」
居酒屋の頭を叩き倒して、錠前屋は引き攣った笑いを浮かべた。声がいささか上ずっている。
「父親の威厳が」
「黙れ」
にやついた居酒屋の頬を捻りあげ、紅に笑みを向けると、ようやく幼い頬が桜色に染まった。
「愛娘の笑顔はいいもんだ、なあ、父上」
「その減らず口はどこかで錠を掛けてもらった方がいいかもな」
「生憎、内鍵しか掛からなくて」
「だったら今すぐ戸締りをしてくれ」
「残念、壊れてるんだよぅ」
「俺が、今すぐ、直してやろうか」
「遠慮しとくよ。それよりほら、客人だ」
襟首を掴まれたまま、居酒屋が戸口を指した。
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