第2話

 朝起きて、錠前屋は覚めきらない頭のまま、まず玄関へ向かう。夜の間は内側から施錠してある海老錠を、黒い扉の引手から外す。確かにそれを、いつもと違わず、番台の所定の位置に置いたのだ。

 錠の鍵は、ここにある。

 懐を探って、錠前屋は掌の鍵をじっと見つめた。見つめたところで対の鍵が出てくる筈もない。


「どこに行ってしまったかな…」


 顎を擦りながら奥へ向かい、裏庭の小さな池の前で足を止めた。


「ここかな」


 怪訝な顔で呟いて、徐に、鍵の付いた細い鎖を池の水に沈める。

 ややあって、鈎針に魚が食いつく要領で引きが来た。そろりと金の鎖を手繰る。


「お前じゃないよ」


 鍵に喰らい付いていた黄金色の金魚を優しく掴んで、水面に逃がす。円を描いて深くに潜っていく尾びれを目で追いながら、錠前屋は微かに眉をしかめた。

 小さく溜息を吐くと、懐に鍵を戻して座敷に上がる。


こう


 意図的に声音を下げて、それでも柔らかに呼びかける。


「紅、出ておいで」


 二階へ上がる階段の手摺に手をかけて、気配についと視線を投げる。

 じっと、恨めしそうな視線とかち合った。


「紅」


促すようにゆっくりと瞬きをした錠前屋に、幼気な頬が膨らむ。


「降りてくるんだ」

「嫌」

「降りてきなさい」


 さもないと、そう続けようとして、その先の言葉が見当たらずに飲み込んだ。

 それでも、十分効果はあったらしい。

 階段の上の少女は、ほんの少し眉を歪めてから、しおらしく足を踏み出した。薄暗い階段を一段下る度に、少女の周りから闇が剥がれ落ちていく。

 白く大きな襟の付いた濃紺のワンピースの胸元に、両腕でしっかりと抱えた金魚鉢が揺れている。覗き込むように足元を確認する仕草が危なっかしく、錠前屋は途中で金魚鉢を受け取ろうと手を伸ばした。


「駄目」


 赤い唇を尖らせて、少女は身を捻ってその手を避ける。硝子の中で水がとぷんと音を立てた。赤い金魚が、水面近くを揺れている。


「勝手に持ち出すんじゃない。ほら、お寄こし」


 小さな足が床を踏むのを待って、錠前屋は腕を組んだ。


「嫌」


 金魚鉢を抱き直して、少女は上目に錠前屋を見た。


「だって、かわいそうだもの。いつもいつもお水からあげられて扉にぶら下げられるなんて」

「仕方ないだろ、錠前なんだし」

「おうちで休んでいるときも、机の上に出しっぱなしでしょう。お水に戻してあげてもいいじゃない」

「面倒なんだよ。毎日使うものだし」

「だったら、普通の錠を使えばいいわ。この子じゃなくても、平気だもの。もっと難しい仕組みの錠だって、いっぱい持っているじゃない」

「気に入ってるんだよ、それが」


 言っている傍から、少女の長い睫毛の先に雫が留まる。錠前屋は慌てて組んだ腕をほどき、所在なげに首筋を掻いた。


「わかったよ。今日は水に戻しておこう」


 膨れたまま金魚鉢を見つめていた少女の頬が、ぱっと明るくなる。その表情の華やかさに、思わず苦笑して、錠前屋は中庭に続く廊下をたどった。

 開け放ったままの硝子戸から、温んだ風が滑り込む。

 目を細めてささやかな中庭を一望すると、錠前屋は草履をつっかけて池の端へ降りた。影を認めたのか、黄金色の鱗が水面に浮かんで弧を描く。


 小さな庭は小綺麗に手入れされているものの、あちらこちらに配されている草が雑草なのか、植えられたものなのか、錠前屋はよく知らなかった。

 ただ季節毎に、自分の好む花を咲かせるものがあればそれを整え、形のいい葉があれば、名の知らぬ草でも手を入れて残した。


 春も終わりに差しかかった今は、端に植えられたつつじの低木以外は、瑞々しい草木ばかりで花は見当たらない。濃くなり始めた緑も、直に艶やかな色を付け、眩暈を覚えるほど草の香りを増すだろう。


 水辺の端、細く背の高い草の上に、季節を間違えた蜻蛉が一尾、風に揺れていた。

 錠前屋の長い指が造作もなく、脆い薄羽根を捕らえる。


「久しぶりだな」


 もう片手で、蜻蛉の身体をぴんと伸ばした。

 瞬く間に、蜻蛉は青銅色に硬く染まり、錠前屋の掌で、見事な蜻蛉の形の錠へと姿を変える。

 じゃらり。

 懐から鍵束を取り出して、錠前屋は眼前にかざした。

 中から細い鍵を選り抜き、慣れた手つきで外す。


 振り返ると、紅がこちらを見つめていた。

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