鍵と錠前
中村ハル
第1話
「鍵…鍵、鍵、鍵」
呟いて、錠前屋は形のいい眉をひそめた。
探しているのは、実際、鍵ではなく錠の方だったが、錠、錠、と繰り返すのは口触りがよくない。たったそれだけの理由で、錠を探しながら鍵と口走っているこの男、自分の商い道具のくせにいい加減である。
「おかしいな」
店と住居とを兼ねた建物は、男一人が暮らすにはやや広すぎる作りだが、当年取って37歳の身にしてはやたら綺麗好きでまめなおかげで、室内は殺風景なまでに片付いている。いや、ただの整頓馬鹿なのかもしれない。
仕事の合間に家事全般をそつなくこなしてしまうため、先日3人目の家政婦が、自ら暇を頂戴したという次第。
そのこと自体、何の不自由も感じていないのだが、辞めた原因が己の性格、生活にあるのじゃなかろうかと悩むところが、この男の愛嬌だった。
「確か、この辺に…」
確かも何も、いつも店の番台の上に置かれている玄関扉の錠である。無くす隙もないものが、忽然と消えていた。
錠前屋は眉間を擦って、探るまでもない記憶を思い返した。何せ最後に手にしたのは、つい今朝のことである。
異国風の石造りの建物が連なる小さな路地に、この錠前屋は店を構えている。大陸の文様を真似た飾り窓の鉄製の黒い扉が目印だ。特に看板なども掲げておらず、観音開きの扉はいつも閉ざされたままなので、一見して、商い中なのかどうかも分からない。前を通る連中は、その扉に掛けられた奇妙な海老錠で、店主がいるかどうかを知るのだ。引手に錠がぶら下がっていなければ、店主が中にいると知れる。
しかし、商い中に、その唯一の看板たる錠が取り払われてしまうのでは、何の意味があるのかと、皆が訝しむ。それに答える店主の一言に、誰もが呆れかえったのも無理はない。
「人がいるのに、錠などかけても無駄じゃないか」
当たり前という顔をして、錠前屋はそう言い放った。
「そうじゃないんだよ、お前。商売道具だろ?これがなきゃ、なに商ってる店なんだかわかりゃしねえ。大体お前んとこは、店かどうかも分からない構えなんだよ」
「俺が錠前屋だってことは、この辺のやつらはみんな知ってる」
「ああ、そうだろうさ」
盛大な溜息を吐いて引き下がったのは、一人や二人じゃなかっただろう。
そんなわけでこの錠前屋、腕はいいのに今ひとつ、商売の方がぱっとしない。噂を聞きつけて遠方から来た客が、店まで辿り着けないのだ。
それでも、必死に働かずとも、のんびりとした暮らしができるのは、彼が作る錠の幾つかに、大層な値が付くからだった。
扱う品は、海老錠・南京錠といった単純な構造のものから、北の大陸から渡来した扉に埋め込んで使う錠、さらには掛け時計の螺子までも扱っている。つまりは鍵と錠に関するものなら何でも御座れという次第。
その中でも逸品なのが、錠前屋が自ら愛用している海老錠なのだ。今時、玄関扉に海老錠なんかで戸締りをする物好きはそういない。だが、ここの錠前屋が作る錠は、少々変わっていた。
蜻蛉や魚、海老、甲虫といった生き物から、柿や桔梗、あらゆるものを錠の形に細工する。
形の珍しさなら、他の錠前屋もお手のものだが、もう一つ、錠前屋の錠には秘密があった。
生きているのだ。
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