第一章~始まり②~

 「……ズリ、起きて、アッズリ!」

 「……ん」

 

 耳の中に流れ込んでくる小鳥のさえずりと少女の言葉に僕が瞼を開けると、かすんだ視界が緑に囲まれた空色を映した。

 目に映る景色がはっきりと開けていく中、無意識的に体を起こそうとしたが、腹部に力を入れた瞬間全身に鋭い電撃の様な痛みが走った。


 「……っ!」

 「駄目だよアッズリ寝てなきゃ。多分だけど、昨日の疲労と初めてフォルツァを使った副作用みたいなものじゃないかな」

 「……フォルツァ」


 何か重大な一部が抜け落ちて穴が開いた記憶の中、状況の理解が追い付いていない僕が起きてから初めて「フォルツァ」という単語を聞いた時、頸動脈けいどうみゃくがドクンと大きく波打った。その波の勢いと共に、空いてしまった穴を隙間なく埋めるコンクリートの様に昨日の記憶が事細かく流れ込んできた。

 僕は痛みに耐えながら切り傷だらけの左腕をゆっくりと起こし、すでに蒼い炎が消えている掌を眺めた。

 そうだ、僕は、兵士とはいえ、人間の命を燃やしてしまったんだ。一つの命だけじゃなく、十人ばかりも。


 「私は、昨日のことは仕方のない事だと思うよ。現に、君の親友は死んだ。もし君があのまま国王軍の兵士達を野放しにしておいたら、君の故郷は残骸どころか灰になっていたと思うよ」

  

 まるで僕の心を読んでいるかの様にティノが穏やかな口調で答えた。


 「でも、僕は人を殺めてしまった。この事実は紛れもない罪だよ」

 「出会った時から気づいてはいたけど、君はとても優しいんだね。だから、誰にでも騙されて、正義と偽った嘘を信じるんだ」

 

 寂しそうな目をしたティノが寝そべる僕を覗き込む様にして俯き、全てを悟っている様な表情で僕の眼に向かって呟いた。


 「アッズリ、実は君に謝らなければいけないことがあるんだ」

 

 謝られることに思う節がない僕は、やけに神妙な顔つきをしているティノに「謝らなければいけないこと?」と単刀直入にそのまま言葉を返した。


 「私は、実は旅人なんかじゃないんだ」


 僕は、ティノのあまりに質素な回答に「……え?」と拍子抜けた言葉が出てしまった。

 別にティノが旅人じゃなくても幼く見える少女ということに変わりはないので、今後困難となる特別な存在なんかじゃ無ければ……。


 「これからフォルツァの事も交えて真実を話すけど覚悟は良い?」

 「ああ、ティノは特別な存在なんだね。いつでも話を聞く覚悟はできているよ」


 何故か僕はティノが特別な存在であるという事をすんなりと受け入れ、彼女の話を聞くことにした。恐らく、僕が納得したのは出会った時の幻想的な雰囲気とミスマッチした少女の容姿が喉に引っかかっていた為であろう。


 「私は旅人じゃなくて、『使者ししゃ』と呼ばれる存在なんだ」

 「使者? どこかの国から遣われてきたのかい?」

 「いや、そういう現実な話じゃないんだ。私は、神の住む星、『ユピテル』からの使者として、ある目的を達成するためにこの地へ来たんだ」


 いきなりこの世の次元を超えた信じがたい話から始まって困惑していたが、何でも受け入れると覚悟を決めたので、僕はティノの話が終わるまで黙っていることにした。


 「その目的は、世界の時の流れ、すなわち『スピーリト』を正すこと。今アッズリが住んでいるこの星には、自分の精神の淀みによって世界の破壊を企てる者が存在するんだ。例えば、この国の様に自分達の領土を焼き払ったり、他の国々としなくてもいい戦をしたり、自然の動植物達を焼き払って様々な悪循環を引き起こしたりしているの。アッズリが知らないだけであって、この世の中にはもっとむごい出来事が影を潜めているんだ」

 「何だよそれ……酷すぎる」


 黙っていようと決めていたが、いくら何でも残酷な真実に、我慢していた感情が思わず口から零れてしまった。


 「この冷酷な出来事によって、スピーリトがおかしくなってきているんだ」

 「……そしたら、どうなるの?」

 「最終的に、スピーリトの歪みによってこの星を囲む大気層が崩れ、宇宙の空間と一体化して酸素が通らなくなった後にこの星は塵となって消滅するだろうね」


 僕は驚きで開いた目と口が塞がらないままごくりと唾を飲み込んだ。

 消滅するという事は、僕の命も無くなるという意味だろう。そんな衝撃的な事実が身近に近づいていたなんて考えたこともなかった。

 同時に、僕よりも小さい体で、大きく驚愕な事実を背負っていたティノに深い同情を覚えた。


 「実は、こんな昔話があるんだ」

 

 ティノは覗き込んでいた顔を、鼠色ねずみいろの雲がふわふわと浮遊している青空に向けて長々と話し始めた。


 「今から一万年くらい前、身を削って血を流しあう戦争が後を絶たなかったと言われているんだ。人々は殴り合い、剣を持ってどちらか片方の命が尽きるまで戦った。勝者は斬り傷だらけの血塗ちまみれた身体で踊り喜び、敗者には国に転がる腐敗した死体や、壊された民家の無残な残骸しか残らなかった。時には、早くも火という技術を開発した国が他の国の領土全体に火を放ち、国全体が骨すらも残らず灰と化した事例もあったと言われている。そんな戦争が相次ぐ中、戦の風がかおる地に名乗りを上げた蒼い眼を宿す若者がいた。その若者は当時誰もが見たこともない蒼い炎を使い、戦で眼が赤く染まってしまった者達を沈め、戦争という名の殺し合いを無くし、後に全世界を統一したと言われている」

 「それって……」

 「そう、その若者が使った力こそ『眼力フォルツァ』。アッズリの眼と同じだよ。私はスピーリトを正すために、唯一この世界を救えるフォルツァを宿す者を探していたんだ」


 ……僕が世界を救う? 


 昨日一昨日まで平凡に生きていた僕にそんな重大な使命が与えられるなんて。しかも、昨日目の前で親友を守れなかったばかりなのに世界なんて守れる訳がないじゃないか。


 「私は、アッズリじゃないと駄目だと思ってる。見ず知らずの私を助け、美味しい食べ物をくれた。そして、絶対無理だと分かっていたはずなのに町の人達の為に身を投げてまで助けようとした。こんなに優しくて勇気がある人は初めてさ」

 「……僕は、僕は!」


 そんなんじゃない。と言い返そうとしたが、緩まった蛇口の様にどんどん水が溢れてくる瞼に邪魔され、遂には昨日から我慢していた大粒の涙が滝の様に流れ落ちていった。

 そして、空を見上げていたティノが笑みを浮かべて、落ち着いた優しい声で言った。


 「そうやって泣けるのも心が温かい人の証拠さ。どう? アッズリ、今度は町の人だけじゃなく、世界を救って見ない?」


 前だけを見て進め。リッキーが死に際に残してくれた言葉だ。

 後ろを見ていても何も変わらない、正にその通りだと思う。だからリッキー、僕は誓うよ。

 死んでしまった親友の為に、ツアレラ地区の大切な人の為に。


 「僕は世界を救うよ」


 僕は伸ばした右腕で、沈んで消えかかっていた心にもう一度情熱の火を灯してくれた少女と、覚悟の証として固く握手を交わした。


 


 「オーライ! オーライ!」

 「ここどかすから手を貸してくれー!」


 僕達が町を歩いていると、避難していたツアレラ地区の人々が皆協力して、瓦礫や壊された建造物の復興作業をしているのが視界に入る。中には、各々の元住んでいた家の前で膝を折り、地に両手を付けて涙を流している者もいた。


 「可哀想だね、アッズリの家はどうなの?」

 「僕の家はまだ奥地にあるからわからないけど、多分被害は少ないんじゃないかな」


 僕が住んでいる家は、ツアレラ地区の中心部周辺を歩く僕達にとって少し遠い場所にあった。現在の被害状況から見て、中心部に連れて傷跡が深くなっていっているため、僕の家は言う程崩壊していないだろうと推測できる。


 (……母さん)


 僕が目覚めた時には、避難していた人々がすでに山から下りてきていて復興作業を図っていた。今地区を歩いた中で母親の姿は確認できなかったので、とっくに家に戻っているか、考えたくはないが瓦礫の下に埋もれているかの二択だろう。

 いずれにせよ、心が落ち着かないのを収めるため、早く母親の安否の確認を急ぎたかった。


 「アッズリ!」


 僕達が中心部を抜けて市場付近を歩いていると、背後から何人か口を揃えて僕の名前を呼ぶ声がした。

 振り返ると、茶髪の二人の青年と、背中まで伸びている藍色の長髪をなびかせた一人の女子が花を咲かせた様な笑顔で手を振っていた。


 「フリッツ! ブラン! それにムーン! 良かった、みんな生きてたんだな」


 僕は小さく安堵の息を吐き、再開した友人達と肩を叩き合った。こんなに久しぶりに会ったかの様に感じるのは、昨日の夜の出来事に一年分くらいの時間が凝縮されていて、余りにも濃く、長い一日と感じた為であろう。


 「ま、アッズリの事は何も心配してなかったから会えて当然だけどな」


 先に口を開いたのは、髪が茶髪で目をぱっちりと開かせているお調子者のフリッツだ。

 その言葉に畳みかける様に「僕はすごく心配していたよ」といったのは、フリッツと同様に茶髪で目が細く少し臆病なブランだ。

 フリッツとブランは容姿が似ている通り一卵性の双子だ。二人を見分けるとすれば、目の大きさと声の質が違うという点のみで判断しなければならない。僕と幼少時からの古い付き合いだが、成長した現在も時折二人の呼び名を間違えるときがある。


 「何より、アッズリまでいなくならなくて良かった」


 悲しげな表情で僕を下から上目遣いで見つめるのは、静かな名前と美麗な風貌とは全く違うお転婆な性格のムーンだ。彼女も僕と双子二人、そしてリッキーとの幼少時からの付き合いであり、周りの男子にも負けない程の男勝りな性格で、僕らの中で喧嘩の腕はピカイチだ。

 ムーンの発言から考えて、リッキーが死んでしまった事はもう知っているらしい。その事を裏付けるかの様に、彼女の涙袋周辺が赤くなって腫れているのがわかる。涙脆いブランもムーンと同じ個所が腫れていた。


 「そっか、皆リッキーのことはもう知っているんだな」

 「最後にまた皆で山の果物採ってきてさ、小さい宴会でも開きたかったな」


 フリッツが言うと、僕達は沈黙の時間に陥った。僕は深海色に染まっている三人の瞳を眺めていると、やはり、同じ時間を過ごしてきた友の命が突然失われたショックは僕と同じくらいに大きく、心に深い痛みを背負ってしまったんだな感じた。


 「リッキーは死ぬ直前、僕に前だけを見て進めって言ってくれたんだ。だから、すぐにとは言わないけど、ちゃんと前を向いてリッキーの分まで今を全力で生きていこう」

 「それが、私達がするべき事だね」

 「この先変に生きて行ったら俺が死んで天国に行った時に、あいつに叱られて地獄に突き落とされそうだな」

 「僕も次会った時に良い顔で顔向けできる様に精一杯生きるよ」


 それぞれが一本の道の真ん中で輪になって拳を重ねた。いつもはふざけて子供みたいな事をしている仲間だったが、この時の皆の表情はいつになく真剣で、この世を去ってしまった彼との大切な約束を誓っている様に思えた。


 「良い人達だね」


 これまで会話に参加してこなかったティノが、僕の背中の影から温和な表情を浮かべた顔をひょっこりと出して言った。


 「え! 誰この子! アッズリって妹いなかったよね?」

 「いや、妹じゃなくて友達だよ」


 ティノは三人の前に姿を出して、「ティノ・フルールです、初めまして」と簡単な挨拶を済ませた。

 ここで使者や神様がどうと言ってしまうと、後々説明が面倒になって、この三人の性格なら親身に一生懸命説明したとしても、最終的に絶対馬鹿にされて終わるだろうと思ったので詳しくは言わないでおくことにした。


 「そういえば、何で君達はこの道を歩いていたんだい?」


 ティノが言うと、三人がハッとした表情で顔を見合わせて、慌てた様子で「やば!」と声を上げた。


 「私達今から市場の人に頼まれて瓦礫の後片付けしなきゃいけないんだった! アッズリも来る?」

 「いや、遠慮しとくよ。まだ母さんの顔見てないんだ」

 「ん、アッズリの母さん? それなら先に家の方に帰っていったよ。でも腕に包帯巻いてたな」


 僕の母親は生きている。この事実がわかっただけで愁眉しゅうびが開く様に心の底から安心した。だが、腕に包帯を巻いているとすると兵士達に何らかの武器で傷つけられたのだろう。

 ひとまず、不意な朗報によって心の深い霧は大分晴れたが、残りの全てを霧払いするために自分の目で母親の無事を確認して、早急に手当てしてあげたいと思った。


 「じゃあ、僕も行くよ。皆またね」


 三人は再開した時と同じ様に口を揃えて「じゃーね!」と言った後、フリッツが先頭になって市場の方へ走っていった。


 「じゃあ行こうか、僕の家に」

 「アッズリのお母さんの傷、深くなきゃいいけど」


 ティノは僕の歩幅と合わせるように早歩きしながら僕の隣を歩いた。僕はこの時すでに、彼女をただの幼い少女とは見ていなかった。フリッツやブラン、ムーンと同じ様に僕と対等な友達として意識していた。

 市場通りを抜けて早十分くらい、なだらかな丘が連なっている麓に、白樺で出来た木造建築の青い三角屋根が見えた。


 「あれじゃない? アッズリの家」

 「うんそうだよ、外から見てもそんなに壊れた様子はないと思うけど」


 奇跡的にも、この丘周辺は国王軍の被害には遭わなかったらしい。恐らく、ツアレラ地区の中心部とは反対側の町外れ付近に位置しているのと、丘の麓に小さい家がぼつんとあるだけの人目につかなそうな所ではあるので、そもそも目に留まらなかったのだろう。

 

 「着いたね、私も入っていいのかな」


 丁度彼女と同じくらいの高さにある銀色のドアノブを見つめたティノは、何故か改まった様な口調で言った。


 「どうぞ、くつろいでいって」


 僕が言うと、ティノが小さい声で「おじゃましまーす」と慎重に家の中に入っていった。僕も続いて入ると、部屋の中は僕が家を出る時と全く変わっておらず、やはり何もなかったんだなと安心した。


 「おかえりアッズリ、その子はどうしたの?」


 声の方に顔を向けると、木の椅子に腰を掛けて座っている母が、右腕につけられた少し深そうな斬り傷から溢れる赤い血を止血していた。


 「母さん! 良かった生きててくれて。色々と説明したいことがあるからちょっと動かないで、今手当てするよ」


 椅子に座る母は「あら、ありがとうね」と言って、純粋無垢な子供の様に、僕にされるがままにして手当てを受けた。

 母を手当てしている間、昨日の浜辺で起きた事、僕が町で国王軍の兵士達を殺してしまった事、僕がフォルツァという力に選ばれて成し遂げるべき使命がある事等々、全て包み隠さず正直に話した。

 母は僕のことを馬鹿にしたり途中で倦怠けんたいしたりせずに、相槌を打ちながら最後まで黙って聞いてくれた。


 「という事なんだ。母さん、僕、戦うよ。大切な人の為に」

 「行くな、とは言わないわ。ただ、条件があるの。それはねアッズリ、あなたが無事でこの家に帰ってくること。勿論ティノちゃんもね。お願いだから父さんみたいにならないで」


 母は僕の手をギュッと握りしめ、目に涙を浮かべながら情の籠った声で言った。


 「うん、僕は死なないよ。明日の日の出と共に家を出るから、ティノもそれでいいね?」

 「私はオッケーだよ! あ、その前にちょっと今思い出したことがあって、置いてきた忘れ物を取りに行ってくるね」


 ティノは「夜ご飯までには戻るから!」と言って早足で家を飛び出して行ってしまった。

 ドアの勢い良く閉まる音と共に、部屋の中に森閑しんかんとした空白の時間が流れる。

 

 「私は夜ご飯の準備をするから、アッズリは身支度でも整えてきなさい」

 「でも、母さん右腕痛むんじゃ……」

 「このくらい大丈夫よ、ほらほら行ってきなさい」


 母は両掌を僕に向けながら、肘を伸ばし折りして早く行けというジェスチャーを見せた。僕はその空気圧に押され、茶の間から追い出される様にして自分の部屋へと向かった。階段を上ってすぐ右にある部屋、それが僕の部屋だ。部屋の中は、タンスと机と細かい綿の糸で編まれた少し広めのハンモックがあるだけの至って質素な造りとなっている。

 僕は「ガチャリ」と部屋のドアを開け、軽快な足取りでハンモックに飛び込んだ。四角い窓から見える太陽は山の頂上辺りまで降りてきており、大方夕方頃を指していた。


 「あの時大分寝ちゃったんだな、色々あったからな」


 僕はハンモックに揺れながら、まだ資料が分散している頭の整理を始めた。

 フォルツァと呼ばれる蒼い力は、どうやら僕が何らかの感情を強く誓った時に発動するらしい。そして、発動している最中は蒼い眼、つまり蒼眼状態になり、気候などの条件で僕の視界が悪い状態だとしても周囲の気配から人を探知できる。後はティノが言っていた事だが、蒼炎は僕が想像した抽象的なものへと姿を変えることができる。

 この辺の知識はこの先戦っていく中での重要な基礎知識と言えるだろう。現在僕が使用できたのは大剣と壁の二種類だ。実際問題、攻守の基本はまかなえてはいるが、この程度のレパートリーでは戦い抜くことが厳しく、すぐに力尽きるのが安易に予想できる。


 「どうしたものかな、とりあえず身支度でも整えるか」


 僕は整理するはずだった記憶の本棚を自業自得で乱雑にしてしまった事に自責しながら、ハンモックから降りて身支度を整え始めた。

 非常食や水筒を最後に詰めた辺りで、タンスの奥に何か光るものが目に入った。手に取って見ると、一つの小さな藍玉色らんぎょくいろの石が細い糸で丁寧に繋がれたネックレスの様な物が艶を光らせていた。


 「これは、父さんがくれたものだ」


 僕が小さいときに誕生日プレゼントで貰った綺麗な石。その頃は父に貰った事が堪らなく嬉しくて跳んで喜んでいたのを今でも覚えている。今でもこの石を触っていると、まだ父が近くにいる様な懐かしい気持ちになって懐が暖かく感じる。

 僕はこの藍玉色の石のネックレスもリュックに詰めて持っていくことにした。


 「よし、このくらいで大丈夫だな」


 僕が身支度を終えてハンモックへと戻ろうとした時、食欲をそそる香ばしい匂いが二階まで侵入して来ると、下の階で僕の名前を呼ぶ少女の声が聞こえた。


 「帰ってきたよー! アッズリー!」


 どうやらティノが帰省したらしい。僕の腹の虫も「ぐう」と鳴り、そろそろ夜ご飯も完成する頃だろうと思ったので、荷物を詰めたリュックを部屋の隅に置いて一階へと向かった。

 階段を下りて茶の間へ入った瞬間、焼いた肉の郁々いくいくたる香りが僕の鼻孔を貫いた。

 円形の食卓テーブルの上には、豚肉のまんまる焼きと野菜のサラダ、山で採ってきた果実がそれぞれの取り皿に振り分けられていた。ちなみに、まんまる焼きと言うのは、獲った小動物を公開処刑される罪人の様に金属の棒に縛り付け、そのまま皮が焦げてくるまで火炙りにするという料理である。何も加工されたり手を加えられたりしていない分調理方法が楽で、体内の肉汁が外に漏れることがなくジューシーで途轍とてつもなく美味だ。

 僕の家庭ではこの料理を誕生日や記念日といった縁起事の日に食べる事が多い。

 恐らく母は、僕達が明日旅立つので景気付けの意味を込めてこの料理を作ってくれたのだろう。


 「何このお肉! すっごく美味しい! こんなの生まれて初めて食べたよ!」


 ティノが目と頬を緩ませて、はなはだしく至福に包まれた表情を浮かべながらまんまる焼きを一生懸命に頬張った。


 「あらあらそんなに口の中に入れちゃって。まだおかわりはあるからゆっくり食べていいのよ。こうして見ていると何だか娘が一人増えた気分ねぇ」


 母とティノは、すでに親子の様に親しくなっており、母と娘と言われても違和感がないほど自然に接してくれていて安心した。

 僕は二人の会話を耳に入れて心を和ませながら、ティノと同じ様にまんまる焼きに齧り付いた。だが、表面上は朗らかな態度を振舞っていても、内心は少しも穏やかじゃなかった。

 今は見えない迫り来る敵、目の前に見える景色だけを映していても、いつ背中を一突きにされるかわからない。気を抜いたらその時点でゲームオーバーだ。

 だからといっていじめられっ子の様に目の前の恐怖に怯え、何もできないで縮こまっていても現状が変わることはさらさら無いだろう。崖っぷちの状況にいても勇気をもって一歩踏み出す、それは今は亡き親友が身を挺して教えてくれたことだ。

 家を出たらしばらく味わうことができないであろう「おふくろの味」というのを舌に刻み込んで、明日から始まる厳しい戦いに向けて家での最後の腹ごしらえを済ました。 

 食事中、僕の心の奥底では、決して裏切る事のできない色々な覚悟が詰まった蒼い灯火が、小さな鬼火の様に静かに燃えていた。



 食事を終えた僕とティノは、二階の僕の部屋にある天窓から屋根に上がり、冴えた藍色の夜空に散りばめられた、きらきらと瞬く無数の星達を眺めていた。

 僕の瞳に映る一つ一つの星屑は、自分の使命を果たす事に忠実な戦士達の様に命を燃やして、この壮大で美しい星空を創り上げているのだろうと感じた。簡潔に言うと、多くの犠牲を費やして一つの芸術を成り立たせている現在のリア王国を思わせる様な夜空だった。


 「綺麗だね、人は毎日こんな景色見れるのかい?」

 

 ティノは好奇心を露わにして、可愛らしい丸い目を輝かせながら言った。


「いいや、雲で隠れているときは見えないよ。でも、普段は毎日見ることができるよ」


 そういえばティノはユピテルという神の住む星から来たと言っていた。多分その場所は雲の向こうの遥か遠くにあるので、一度もこの景色を見たことがないティノにとっては凄く珍しいことなのだろう。

 ティノは真上の星から、「いち、にい、さん」と数えていった。


 「この世界が、夜空みたいに静かで美しくなればいいのに」

 「それが、アッズリの願いなのかい?」


 直感でふと思ったことをそのまま口走っただけなので、「願い」というのには少し違う気がするが、僕がそのように思っていたという事は確かだ。

 戦争なんかしないで星達の様に静かに暮らせば、僕らは一つの平和という芸術を創り上げる事ができる。

 逆に、深海色の夜空に輝く金色の星達が戦争を始めたとしよう。彼方此方あちらこちらに広がる戦いによって星達は間断なく赤い血を流し、憐れむ間もなく、深海色の静寂な夜空が、憤怒を表すマグマの様にドロドロの血の海へと変化を遂げて僕達の頭上に描かれるだろう。


 「願いっていうよりは、望みかな」


 ティノは星を眺めながら「ふうん」と首を傾げた。そして、一つ間を置いてから口を開いた。


 「そういえば、アッズリのお父さんはどこにいるんだい?」

 「亡くなっちゃったんだ、今から半年前の戦争でね」


 「そっか」と悲しそうな声で小さく呟いたティノに、僕は説明を続けた。


 「半年前のある日、家に一通の手紙が来たんだ。国の為に命を捧げよっていう文章が書かれた国王からの手紙が。父さんは戦争なんて反対だって言ってたけど、妻や息子がどうなっても知らないぞって脅されて半強制的に連れて行かれたんだ」

 「それが今でも続いている訳なんだね」

 「うん、父さんがいなくなってから母さんは酷く戦争を嫌っていったんだ。だから僕が家を出るって言った時も本当は止めたかったのかもしれない」

 「アッズリの母さんも自分なりに覚悟したんだろうね」


 本当にその通りだ。戦争が原因で夫を亡くしているのに、僕をその元凶へ向かわせようなんて並みの決断力じゃ到底不可能だ。

 僕は夜風に肌を涼ませながら、母の懸命な思いが詰まって熱くなる胸に手を当てた。


 「そろそろ身体が冷えてくるから部屋に戻って寝ようか」


 星空の下、涼風が吹く屋根上をあとにした僕とティノは、部屋に入って二人でハンモックに寝転がった。僕が目を閉じてからすぐに「すぅ、すぅ」という寝息が聞こえたが、僕も今日あった出来事を振り返っているうちにいつの間にか深い眠りについてしまっていた。


 


 「……痛い」


 僕が目を薄く開けると、まだ視界は暗かった。それに、頭が重く感じた。


 (……いや、まてよ?)


 僕は顔面に覆いかぶさっている少女をどかし、体を起こした。

 状況を把握すると、どうやらティノは僕の頭に寄りかかって寝ていたらしい。そのおかげで頭だけに何倍もの重力がかかっているような慣性が働いていた。

 重い頭を天窓に向けると、東の丘の辺りに発生した少量の雲が橙を帯びてきて、朝日が昇り始めているのが見えた。


 「ティノ、起きて、そろそろ出発するよ」

 「……ん、なんふぇ? ……すぅ」


 ティノは意味の分からない言葉を喋った後、再び寝息を立てて数秒後に二度寝にふけってしまった。

 全くをもって、何故今になって少女らしさを全開にするのか疑問だ。昨日まで賢そうな態度を持って僕に接していたのに、差異にも程がありすぎると感じた。

 

 (どうやったら起きてくれるんだ? あ、そうか)


 僕は少々悩んで自問した末、ある作戦をひらめいた。


 「ティノ、起きて。母さんが甘いお菓子を作ってくれたよ」

 「……ん、お菓子? どこ?」


 ティノは瞼を服の袖で擦りながら体を起こして、辺りをキョロキョロし始めた。


 「よし、出発するよ。準備してティノ」

 「え、お菓子は?」

 

 僕はティノに「ないよ」と言ってハンモックから降り、事前に準備しておいた旅着に着替えた。ハンモックの上から少女の不満の声が聞こえたが、無視をして昨日旅に必要そうなものを詰め込んだリュックを背負った。

 僕は今のうちに部屋の中を脳裏に焼き付けておこうと、部屋の中央に立って一周ぐるりと見回した。


 「何してるのアッズリ?」

 「今のうちに部屋を見ておこうと思ってね」


 ティノがようやく我に返ったのか、何もなかったかのように澄ました顔で言うと、ハンモックから降りて一人ドアへと向かった。


 「ティノは何か準備するものないのかい?」

 「あるけど、一回の扉の横に置いてあるよ」


 確かティノは昨日の夜ご飯の前に忘れ物をしたと言ってどこかへ出かけたんだった。恐らく今日から始まる旅に使う私物を取りに行ったんだろう。

 僕は「じゃあ行こうか」とティノに言って部屋のドアノブに触った時、昨日持っていくと決めた一番大事な物を忘れていることに気が付いた。


 「危ない、忘れ物」


 僕はリュックの中に詰めていた父から貰った藍玉色のペンダントを取り出し、両手を使って首から下げた。


 「アッズリ、それ何?」

 「父さんがくれたペンダントさ。色んな思い出を忘れないように持っていこうと思ってね」

 

 僕とティノは部屋を出てから今日の旅についての心境を口々に話しながら、階段を下りて扉へと向かった。部屋を出た時母の部屋が目に留まったが、ドアが閉まっていたのでまだ寝ているのだろう。

 そんなことを考えながら扉に着くと、いつもと少し違った景色が目に映った。


  「ティノ、忘れ物って何だい?」

 

 階段を下りてから僕の視界に入ったもので、扉付近に新たに立て掛けてある竹箒(たけぼうき)といつも通りの景色以外ティノの私物らしき何かは見つからなかった。

 ティノは立ち止まっている僕の横をすり抜けていくと、壁に立て掛けてあった竹箒を取って「これだよ!」と嬉しそうに手に取って見せた。


 「それ、普通の竹箒みたいだけど」

 「まあ竹箒であることに変わりはないんだけどね、ちょっと違うんだよ」


 ティノはそう言って扉を開けると、母によって綺麗に整備された家の前にある庭の方に小走りに向かっていった。

 僕はティノを追いかけて家を出ると、庭の前で右手に竹箒を構えたティノが何か呟きながら暁天ぎょうてんの空に向かって竹箒をかざしているのが見えた。

 その光景に見惚れて扉の前で佇んでいると、暁方の風が渦を巻きながら、みるみるうちにティノを取り囲んでいった。

 

 「ティノ!」


 思わず声を上げると、ティノの全身を多い囲んだ渦巻きが蛍光を放ちながら、勢いよく空中に分散していった。

 

 「何も心配することないのに、アッズリ、これはね魔法って言うんだよ」


 ティノを見ると、今まで着ていた白い服が新品の様に眩い光を浴びており、彼女の肌も心なしか艶を出して綺麗になった様に思えた。


 「浄化の魔法って言って、私みたいに限られた高位な存在が使えるんだよ」


 ティノは腰に両手を当て、胸を張りながら「えっへん」とドヤ顔を表現した。

 僕は今朝の事もあり「高位な存在ねぇ?」と流していると、勢い良く扉を開けた母が慌てて飛び出してきた。

 

 「どうして、何も言わないで言っちゃうのよ!」


 母は荒々しく息を切らしながら、僕の前に来て掠れた声で言った。


 「母さんが寝てると思って……」

 「一言声を掛けてくれればよかったのに」


 本当は母の顔を見てしまうと、旅立つ前に涙が零れてしまうと思ったからだ。そして、その涙で潤んで歪んだままの視界では、はっきりとした力で前に踏み込めず、新しい景色を鮮明に見ることができないと思ったからだ。

 母は僕の気持ちを無視して呼吸を落ち着かせると、僕の両肩に手を置いて真剣な眼差しで言った。


 「アッズリ、一言だけ言わせて。この先本当に辛い事が待っていると思うわ。すっごく大きい壁が目の前に立ちはだかるかもしれない。でも、必ず生きて帰ってきて。ティノちゃんと一緒に」


 母の情が籠った訴えに、一回でも瞼を閉じると涙が零れると思って閉じなかったが、目を開いたままの状態で我慢していたものが流れ落ちていった。

 この家を出てしまったらもう当分母に会う事は出来なくだろう。それどころか僕が無事で帰ってくる事ができなくなるかもしれない。僕はそういうどうなるか分からない方位磁石の効かない大海原を進まなくてはならないのだ。

 でも、だからと言って目先に広がる海に背を向けることは決してしない。僕は母の真っ直ぐな瞳を見て、様々な思いを込めた誓いの言葉を告げた。


 「……うん、必ず生きて帰ってくるよ」


 僕は溢れ出す涙が止まるまで下唇を噛み締めた。


 「アッズリ、私もついてる。さあ、冒険に出よう!」


 ティノの方に目を向けると、黄緑の丘の麓に立った彼女が灰青に煌めく朝日の下で大きく腕を伸ばして竹箒を振っているのが見えた。

 大丈夫、全然視界は歪んでいない。それどころか心にでも飛び込んでくるかの様に壮大な景色が僕の目を焦がしている。


 「よし、行こうか!」


 僕は涙を拭い、家の前に立つ母に精一杯の笑顔で「行ってきます」と手を振りながら、収まらない好奇心を掻き立ててティノと一緒に朝日が昇る方角へと走り出した

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