第8話 1-8

 地を走り、根を飛び越え、そして後ろを振り返る。

 ――駄目、このままだと追いつかれる……!

 状況を判断して足を止め、詠唱に入る。

「水乱の鞭よ!」

 下級の共鳴晶術を即席で紡ぎ、現れた水鞭を用いて監視者に攻撃する。

 柔軟にしなる水鞭が鋭く【鎧】を打ち据え、しかしたいした成果も上げずに散った。

 ――やっぱり、この程度の魔術じゃ効かない……!

 ミナは募る焦燥感に背を押され、弾けるように逃げ出した。

 遅れて大槌が振るわれ、大地を深く抉った。

「ぐぅっ!?」

 抉り飛ばされた石つぶてが肩に当たり、ミナは思わず地面に倒れた。

 ――痛い。でも逃げなければ捕まってしまう。

 よろよろと手をついて立ち上がり、また走る。

 ……怖い。

 不穏な音が鳴った。

 ミナは直感に従って体を捻り、投げられた岩をギリギリの距離で避けた。

 ……怖い。

 森林を揺らすほどの咆哮が上がった。

 何事かと振り返れば、監視者の姿が見当たらない。

 今度は何が起きたのかと左右を見渡し、そして頭上に差した影に気が付いた。

「――ッッ!?」

 五体すべてを使って横に跳んだ。

 ワンテンポのあと、凄まじい力によって振るわれた大槌が地を叩き、その表面を存分に破壊しつくした。

 直撃は避けたが、発生した衝撃波まではどうにもできない。ミナはなされるままに吹き飛び、そして地面に背中から落ちた。

「かはっ!?」

 内側から襲う激痛に、肺から空気がすべて漏れた。

 捨ててしまった酸素を求めて筋肉が収縮を繰り返そうとするが、痛みにもがく肺がそれを拒絶する。

 二度三度とむせ、ようやく酸素を確保する。そして朦朧となっていた瞳の焦点を合わせると、そこには一体の巨人がたたずんでいた。

 感情などありはしない、金属に込められた紛い物の生命。それは頭部を覆う兜の奥からゆらりと光を踊らせ、無常に眺め下ろしている。

 監視者は光を瞬かせると、大盾を静かに振り上げた。

 ――叩き潰す気だ。

 ミナはとっさの判断で魔術を紡ぎ、地面を手で叩いて氷の柱を呼び寄せた。

 大盾の表面を氷の刃が滑り、軌道を逸らした。

 まさか反撃されるとは思っていなかったのか。監視者は予想外の一撃によろめくと、体勢を立て直すために距離を取った。

 怖い……。怖い……怖い……!

 目元に浮かび上がりかけた恐怖の涙を、ミナは指ですくい取った。

 もはや走ることもできない。地面を這いながら、芋虫のような遅速で逃げることしかできない。

 勝敗が決したというのに、惨めに敗北を認めない。その姿に、監視者はあるはずもしない呆れの心を抱いたようだ。武器を下げ、ゆっくりとミナの後ろを追ってきた。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 少し前まではあんなに笑っていたのに、今は痛みと情けなさに苛まれ、無様に砂を掴み、地を這っている。

 本当なら今ごろ街に帰って、無事に依頼が達成したことをみんなと祝い合っているはずだった。

 それがなぜ、どうしてひとりでこんな怖い目にあっている。

「……ふ……ぐぅぅ……ッッ!」

 自らのふがいなさと無慈悲な結末に、嗚咽の端が顔を覗かせた。

 ――駄目! 最後まで諦めないで! まだやれることがあるはずだから!

 ミナは歯を食いしばって耐え、腕に力を込めて進んだ。

 健気に続く逃避行は、だが、数十メートルもしないうちに大樹の根に阻まれた。

 見渡せばそこは、最初に監視者と戦った場所だった。

 ――戻って、きたんだ……。

 ミナは静かに息を吐き出すと、根を背にして座り込んだ。

 それを諦観の行動と捉えたようだ。監視者が歩む速度をさらに緩めた。

 追い詰められれば鼠も猫を噛む。――それは、油断なく容赦なく、ミナ・ディセットを確実に殺そうとする意思の表れだった。

「…………意外と、心配症なんですね」

 ぽつりと、そう漏らした。

 魔法で作られた生命体が、こうも慎重になれるものなのかと、ミナはおかしくなった。

「私はそんなたいした人じゃありません。心配しなくても、私ひとりじゃ、あなたに勝つことなんて絶対に無理です」

 ミナは自虐的な瞳で微笑みかけ、――そして、次にはきつく引き締めた。

「ですから、を使わせてもらいます」

 力を振り絞って立つと、根の先にあるに触れた。

 ――それは、大樹の根に拘束された【ガラス質の氷塊】。

 いままで、ミナは何の当てもなく逃げていたわけではない。氷塊を初めて見た時、その中に眠る魔力を、魔術に転用できないかと密かに考えていた。

 自身の魔力だけでは、監視者ほどの敵を打ち破る魔術などとても賄えない。ならば、別の何かで代用すればいい。

 ――こうして手に触れてあらためて解った。大樹の根に力を抑えつけられているとはいえ、氷塊の奥に蓄えられている魔力は計り知れないものだ。自身の力量ではその力の一端しか扱うことはできないが、それでも、どれほどの威力の魔術が繰り出せるのか想像もつかなかった。

「行きます!!」

 残る手を突き出し、精巧なるサファイアの結晶をイメージする。

「氷王の命により、八槍が集いて穿つ! 祖は深より生まれし氷牙なり!」

【オルドナの大虚】、その深奥に眠る魔力を手繰り寄せ、結晶の生成と破壊を成す。


 氷雪系統、共鳴晶術レゾナンスドライヴ【フリージングスキュア】


 氷塊よりおぞましき魔力が解き放たれた。

 それらは怨霊の如き執念と形象を以って周囲一帯のマナを喰らうと、監視者を取り囲み、八本の氷槍へと変貌を遂げた。

 槍というよりは剣。剣というよりは槍。剣槍と呼ばれるそれは、あの少年が愛用していた武器と酷似している。無意識的に、心象に宿るそれが具現化したのだろう。

 ただし、それは形だけだ。宿る魔力の方向性と、その質量の巨大さは比べられるものではない。

「――貫け!」

 指差し、氷槍に命を下す。

 非科学の帰結である魔術が発動し、空中に線と円が描かれ、魔法陣が現れる。

 魔法陣を射出機とし、氷槍が上空八方から監視者へと襲い掛かった。

 逃げ場はない。そして質量と冷気による二重破壊。氷槍に貫かれれば如何なる【鎧】であれど、破壊は免れない。

 しかし、あろうことか監視者は、身を守るべき大盾を真っ先に投げ捨てた。そして大槌を両の手で逆さに持つと、先端を地面に打ちつけた。

 それを合図に大地が――大樹が鼓動を上げた。

 大樹の幹に魔力が灯り、根が地を引き裂いて暴れ回った。

 根は大地の束縛を解くと、明確な意識を持って氷槍へと絡みついた。

 恨みの冷気を放つ氷槍の自由を奪い、絞めつける。魔力一辺すら残らず奪い去り、そして耳障りな反響音とともに、氷槍を完膚なきまで砕ききった。

「そ、そんな……!?」

 あれほどの魔力を込めた大魔術が、こうもあっさりと防がれるとは。これが、トータルランクS+の化け物、最上位のヴィラルエネミーの持つ力だというのか。

 ミナは足の力が抜け、呆然となって座り込んだ。

 そうだ。監視者とは文字通り、あの氷塊を監視する者だ。ならば氷塊の魔力がいくら強大であろうと、それに対する備えがあって当然なのだ。それほど簡単なことを、なぜいままで気付けなかったのか。

 ――悔しい……。

 止めていた涙が堰を切った。

 未熟者の知恵など、考えなしに等しい。それが痛烈に身にしみた。

 冒険の初心者がどうこうなんて関係ない。いまは、自分の無力がこんなにも悔しかった。

 咆哮が、ミナを現実へと引き戻した。顔を上げてみれば、涙で滲む視界に、【鎧】をまとう化け物の姿が映った。

 化け物は、その身を大きく見せるように体を揺らし、一歩、また一歩と近づいてくる。

 それは不安と恐怖を煽る、酷く残虐な行為だった。

「だ、誰か……!?」

 ミナは助けを求めようと、周囲を見回した。

 当然、誰もいない。いるのは自分ひとりだけだ。

「あ……ああ、あ……」

 底知れぬ恐怖に、ミナの体から自由が奪われた。

 流した涙で視界がぼやけ、それが余計に恐怖を引き立てるというのに、泣くことをやめられない。

「ごめん……なさい……」

 無意識に言葉が出た。

 それは敵に慈悲を求めたのか、我が身を心配してくれている妹への謝罪なのか。ミナにもよくわからなかった。だがその脳裏に浮かんだのは、優しく笑う、ひとりの少年の顔だった。

 いびつな形の化け物が、ゆっくりと、大槌を振り上げた。

 そして、


「随分とやってくれたな、お前」


 怒りに震える炎が、流れる涙と、醜悪な化け物を吹き飛ばした。

 鮮やかな紅蓮に身を焼かれ、火だるまになった化け物が宙を飛ぶ。

 鮮明になった視界に深い青が踊り、気がつけば、ひとりの少年が立っていた。

 彼は歩み寄り、膝を突き、手を差し伸べるなり、

「大丈夫、もう泣かないで」

 穏やかに微笑んだ。

 ミナはその手を取ろうとして、また、自分の瞳に涙が溢れていることに気づき、

「――無理だよ、ソーマ君」

 そう言って、涙でくしゃくしゃになった笑顔を見せた。

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