Scene53 その時が来るまで

「というわけで、今回の旅も、そろそろ終わりを告げようとしてるってことなんだ」

 透はソファに座ったままテレビの電源を入れた。


「旅?」

「そうだよ。すべてが旅だったんだ。鎌倉に行ったことも含めてね」


 折しもケーブルテレビでは、前も一緒に見た旅番組を放送している。

 今日のBGMはシャーデーの『キス・オブ・ライフ』で、その軽快な音楽に乗せてローカル線が走っている。今回は海沿いではなく、緑豊かな古い町の風景だ 。

 明子はテレビの画面を見ながらつぶやく。

「旅、か・・・・・・。何もかもが、ウソみたいだけどね」

 透は明子の横顔に目を遣る。彼女はすぐ近くにいる。

「神様が書いた小説の中で生かされているみたいな感覚」

「実はそれ、俺も感じたんだ」

 明子も透を見て、うれしそうな顔で微笑んだ。


「最近起こったことだけじゃなくって、これまでの人生を振り返ってみると、どこまでが本当で、どこからがウソなのか、分からなくなってる」

「全部本当だよ」

「夫を亡くしたことが事実だというのは分かる。でも、彼が殺されてしまったっていうのは、信じられない」


 この3日間、明子は自分のマンションの部屋で沈黙し続けた。自ら命を絶ってもおかしくはない状況に、透も生きた心地がしなかった。

 それが今日、明子の方から連絡があり、彼女はここへ来てくれたのだ


「夫が気多っていう人物に殺されたのは信じられないけど、アーロンは私が死なせてしまったって、今でも思ってる」

「そこは本当じゃないね」

 明子は遙か遠くを見るような目をする。

「私は、その気多っていう人のことを知らない。最後に怜音さんの所に行ったとき、頭にコードの付いた装置を被せられて、2階から転げ落ちてきたあの人だってことは分かる。でも、夫はあの人に殺され、私はあの人に命を狙われていたっていう実感は全然ない」

「まあ、それはそうかもしれないな。でも、気多は少なくともこの2年の間、ずっと君のことを考えていた。危うく君の脳は気多によってハッキングされかけたんだ」

「そこが分からない。ウソみたい」

「鎌倉での異様な頭痛はウソだったかい?」

 明子は再びテレビの画面に目を遣る。ローカル線は所々苔むしたコンクリートのトンネルの中に突入する。


「あれから、どう? 頭痛の方は?」

「それが、多少続いてるのよ。何らかの障害が残っているのかしら?」

「どうなんだろうか? 1度脳外科に行って診察してもらった方がいいかもしれないね」

「でも」

 明子はテレビの上の方を見ながら言う。

「脳は再生するっていうのが最近の学説みたいね。脳再生医療も進んでるし、すり傷が治っていくみたいに、脳細胞にも自然に再生する力があるんじゃないかって言われ始めてるみたいよ」

「俺もそう思うよ。脳は再生するよ」

 明子は表情を変えずに言う。

「脳が再生したら、私の心も再生するかな?」

「再生するよ、きっと」

 透はそう言った後、炭酸水に口を付ける。

 BGMが変わった。TOTOの「Africa」だ。

 この番組で流れる音楽は、どれもなつかしいものばかりだ。音楽は様々な記憶を呼び起こし、過去と未来の中間点に立つ自己の心を相対化させる。


 無人駅を出発したローカル線は、わずかばかりの乗客を乗せて、まばゆい緑の中を進んでいく。空はどこまでも青く、脱脂綿の切れ端のような雲を浮かべている。


「ところで、怜音さんは大丈夫かしら?」

 明子は思い出したかのように言う。

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