Scene54 神様のシルエット

「今思えばね、怜音さんとの出会いも全部ウソだったような気がするのよ。あの人は、私にしてみれば神様だった」

「神様、か・・・・・・」

 瞳を閉じると怜音の姿が浮かび上がってくる。

 

 今回、気多のパソコンに保存されていたデータを総合すると、アーロンの死にも気多が絡んでいたことが分かっている。


 原発へのサイバー攻撃は必ずしも思い通りというわけではなかった。そもそも本当に人を殺すことまでは想定していなかった。まさか自分のハッキングにより、あんな事故が起こるとは、一番驚いたのは気多自身だった。

 しかもターゲットである深川泰彦の死は、過労死という形で処理された。

 思わぬ形でリベンジを果たして味を占めた気多の次なるターゲットは、アーロンだった。高校時代から怜音を愛し続けてきた気多にとって、アーロンは目の上のたんこぶに他ならなかった。


 もしかすると、アーロンもサイバー攻撃によって葬ることが出来るかもしれない。


 気多は新聞記者を装い、敦賀市で原子力政策の担当部長だったアーロンに接近し、施策をバックアップするための記事を書くからと、長期取材をもちかけた。

 人のいいアーロンは何の疑いもなく気多を信用した。

 おそらく、ちょうどその頃、アーロンは明子を愛していた。原子力プラントの技術責任者である深川泰彦とは、まさに運命共同体のような関係だった彼は、何度か深川の家に行って酒を飲んでいた。


「いずれアーロンも、気多のサイバー攻撃の犠牲になっていたかもしれないね」

 透は言った。

「MaCのアイデアはその頃すでに温められていて、パワーグラスの設計図も考案されていたんだ」


 明子は透の話を聞きながら、やっぱりすべてがウソみたいだと思っている。


 ところが、聡明なはずのアーロンは自爆した。

 事故から半年経った雪の降る夜、気多と深酒をした後、自宅の前で倒れてそのまま亡くなった。急性アルコール中毒で倒れた後の凍死だった。

 その日どんな話をしたかは、もはや気多しか知らない。だが、気多はすべてを語らないだろう。

 アーロンは大きなストレスを抱えていて、心身ともに疲弊しきっていたのは間違いない。原発事故が起こってしまった上に、怜音と明子の間にできた恋の泥沼にはまっていたのだ。 

 気多がアーロンの酒の中に何らかの薬を投入した可能性だってある。だが、すべての事実は藪の中だ。


「でも、私がアーロンと怜音さんに対して犯した罪は永遠に消えない。私は残りの人生で罪を償わなければならない」

「アーロンは、家庭があることを秘密にしていたんだろ?」

「私だけじゃない。主人も知らなかった。そもそも主人は、市の担当者の家庭の話を聞くだけの余裕がなかった。彼らが家に来ることはあってもほとんどが仕事の話だった。敦賀の家には応接室が作られていて、市役所よりも使い勝手が良かったみたい。大きな声で会議が出来るし」

「怜音さんには申し訳ないけど、運が悪かったんだよ」


❷ 

「これからどうなるのかしら、怜音さんは?」

「殺人予備罪に問われるかどうかっていう話だったけど、結局、情状により起訴されないようだ。今回の首謀者はあくまで気多1人であって、怜音さんは彼に乗せられたっていうことになったんだろう」

「もう、私、一生会うことはないのかしら?」

「会う必要がないよ。君たちはお互いの人生を歩むべきだと思う」

「怜音さんに直接謝罪したいし、するべきだと思う」

「今はやめといたほうがいい。たぶん、お互いに得るものなんて何もない。これから、もっと時間が経てば、その時が来るかもしれないけどね」

 明子は浜辺に打ち上げられたガラスの破片のような瞳で、空間上における任意の1点だけを見つめている。


 ローカル線は田園風景の中を駆け抜け、再びトンネルへと入る。

 鎌倉に行くときの横須賀線の中で、明子が芥川龍之介の『蜜柑』の話をしていたのをふと思い出す。

 人生とは、たまらないものだ、と。


「そういえば」と透は言った。

「昨日、角瓶先生からメールがあったんだ。怜音さんの連絡先を教えてほしいって」

「何のために?」

「怜音さんが落ち着いたら、角瓶先生の研究室の補助研究員として雇いたいって言ってた」

「えーっ?」


 長いこと気多の実験台にされていた経験から、研究に貢献できることがあるかもしれない。それに、臨床心理士の資格もある。たとえば、人工知能と認知心理学のコラボレーションは、ポテンシャルを感じる。


「怜音さん、応じるかな?」

「それは分からないね。でも、角瓶先生の研究室に入ったら、怜音さんの人生がずいぶん変わると思うね」

「もちろん、良い方よね?」

「もちろんだ。俺には分かるんだ。角瓶先生の本当の考えが。あの人は本当に優しいから」

「それで、教えたの?」

「もちろん教えたよ。電話番号もメルアドも。だって、仮に教えないとしても、すぐにリサーチされてしまうよ。研究室には葉さんもいるしね」

 明子はふわっと笑みを浮かべた。

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