Scene41 赤ずきんちゃんの告白

「その人は、アイルランド出身の日本人で、中央の官僚だったのですが、敦賀市に派遣されている人でした。原子力政策を担当していて、夫の職場にもよく足を運び、家にも来てくれていました」

「あなたは嬉しかったのね?」

「それは、分かりません。というのも、あの時のことを思い出せないんです。長いこと記憶喪失状態でした」

 怜音は拳を握りしめる。

「それが、鎌倉に行ったとき、開かずの扉が開いたかのように、なぜか強烈に記憶が蘇ったのです。もしかして、あの方と一緒に、何度か鎌倉を訪れたからかもしれません。でも、私は、そのことすら覚えていなかったのです」

 明子はまぶたを固く閉じながら話を続ける。

「鎌倉は私と夫が結婚式を挙げた場所で、一緒に旅行した思い出深い場所でもあります。その思い出をたどろうとしているうちに、そういえば、アーロンとも行ったことを思いだした次第なのです」

「アーロン・・・・・・」


 お前は夫を失った直後の記憶喪失だったと言い訳するかもしれないが、私にとっては愛する夫を略奪され、子どもも奪われたんだ。お前はただちにこの場で処刑されるに値する罪を犯したんだ!


 それでも怜音は、喉元の震えを抑えながら、つとめて冷静に語りかける。

「そう、で、鎌倉でフラッシュバックした記憶っていうのは、だいたいそんな感じね?」

「もうひとつあるんです」

「もうひとつ?」

 怜音は息苦しくなった。それでも、話してもいいわよ、と明るく言った。


「そのアーロンという人は、4年前の冬に、亡くなってしまったのです。実は、あとで分かったことですが、その人には奥様がいらっしゃったらしいのです。私も主人も、全く知らされていませんでした。敦賀市内のバーでお酒を飲んで帰る途中、雪の中で倒れてしまい、そのまま帰らぬ人となってしまったんです。その死には不可解なところがいくつかあったという噂を地元で耳にしました。でも、雪の上での凍死だとあっさりと決めつけられてしまった」

 おぉ・・・・・・

 怜音は喉元で呼吸が止まったのを感じ、両手で自分の首を押さえた。脳の奥が音を立てて軋む。最後にアーロンの吐き出した血の色が眼球ににじむ。

「だ、大丈夫ですか?」

 う、うぅ・・・・・・、苦しい。


 壊れた自転車のように歪んだ顔の上で、ローズピンクの眼鏡が傾いている。

「私にも、忌まわしい記憶があるのよ。あんたよりももっとひどい記憶がね」

 怜音は狂犬病のような表情で、恨めしそうに明子を見上げた。その表情と対峙した明子は、すこぶる恐ろしいものを見せられたような心持ちになった。


「ちょっと、経口補水液をもらえるかしら、ほら、私のデスクの上にある」

 明子は怜音の言うとおりにした。


 それをペットボトルの半分ほど飲み干すと、すっかり紅潮した怜音の顔色が多少は回復したように感じられた。

「だ、大丈夫ですか、怜音さん?」

「大丈夫じゃないわ、もうすぐ死ぬんじゃないかと思うくらい苦しい。でもね、こんなところで死ぬわけにはいかない。私にはどうしても成し遂げなきゃならないことがあるのよ。口には出さないわ。あのね、明子さん、何でもそうだけど、本当に大事なことは軽々しく口に出しちゃダメなのよ。心の中に、じっとためておくの。自分は決して軽々しい人間なんかじゃないって、プライドを持ちながらね・・・・・・」

 怜音は『赤ずきん』のおばあちゃんのような顔をして、残りの経口補水液を喉に流し込んだ。

 明子はとりあえず反応したが、これまで信頼しきってきた目の前のカウンセラーが一体何を伝えようとしているのかがよく分からない。


 熟れすぎたトマトのようにぐちゃぐちゃになった顔のまま、怜音は再び診察用の椅子に座った。

「そういえば、日のメインは、あなたの無事帰還のお祝いだったわ」


 サイドテーブルには赤ワインの注がれたグラスが置かれたままだ。

「あなたは鎌倉で脳の奥がものすごく痛くなったって言ったわね」

 明子は静かにうなずいた。

 怜音は肩で息をする。

「それはね、脳波が影響してるのよ。つまり、脳波が出すぎてるの。だから、今日は脳波を正常にする装置を装着して、ちょっとした治療をしてみるわ。いい?」


 怜音はデスクの上の段ボール箱から、ヘルメットの形状をしたtDCS(経頭蓋直流刺激)用のデバイスと新しいパワーグラスを取り出した。鎌倉に忘れて帰ったものよりもシンプルな形状で、一見、普通の眼鏡と何ら変わらない。


「この装置を使った後、ごくまれに、頭痛が襲うことがあるようだけど、それは異常じゃないから気にしなくていいわ。それから、サングラスも新しいのを作り直してあげたから、さっそく今からつけてちょうだい。あなた、忘れて帰ったんでしょ。鎌倉に」

 怜音はかすかに震える手でパワーグラスを明子に渡した。


 明子は苦笑いを浮かべながらも、すんなりと装着した。

「申し訳ありません。慌ててホテルを出たし、早朝だったので、こんな大事なものを忘れてしまったんです」

「じゃあ、そのまま、これをかぶってもらえる?」

 明子は返事をして、北村ジュンがイスラエルから取り寄せたtDCS用の殺人デバイスを頭に装着した。至る所にチップが貼り付けてありごつごつした印象だが、思ったよりも軽く、肌にフィットする形状だ。


 怜音は、それがより正確に装着されるように、半腰になってサポートした。明子は疑いなく指示に従う。

 愚かな女だわ、と怜音は心でつぶやく。これじゃまるで、インチキ宇宙船に乗せられた素人みたいな絵じゃない? これがお前の最後の姿になるのよ。


 椅子に戻った怜音はマウスを握ってパソコンに向かう。北村ジュンにレクチャーしてもらった通りの操作だ。

 そして、明子に最後の恨み言を述べるための心の準備に取りかかる。


 だが、頭頂部に取り付けられたパイロットランプがいつまで経っても点灯しない。

 明子は椅子にもたれて今にも眠りそうな表情を浮かべている。

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