Scene42 トロイの木馬

 北村ジュンが2階からダイビングするかのように転がり降りてきたのは、それから10分近く経った時だった。こんなにも青ざめた北村ジュンを怜音はかつて見たことがない。

 明子もはっと目を覚ました。

 髪を伸ばし、無精髭を生やし、銀縁の汚れた眼鏡を掛け、くたびれた格好をしている奇妙な男が、深海から引きずり出された魚のように目の前に突然現れたのだ。

 怜音は明子に北村ジュンを紹介することすら忘れ、小声で噛みついた。

「ちょっと、いったいどういうことなのよ!」

「まあまあ、とりあえず、今日の所はお引き取りいただいて・・・・・・」

 北村ジュンは怜音の背中を押して、明子に出て行ってもらうように催促した。


「説明しなさいよ!」

「パソコンが突然言うことを聞かなくなったんですよ」

「最強のパソコンとか言ってたじゃないのよ。あれはデタラメだったって言うのよ?」

 北村ジュンはゴキブリを噛んでしまったかのような顔で、どんなパソコンでも不具合は生じるものなんだと弱々しく訴えた。

 とりあえず復旧して、それから次の手を考えるからと言い、パソコン室に入った。


 再起動をかけて、アプリケーションを立ち上げようとする。

 だが、何度やっても画面がフリーズしてしまう。

 たまらずソースコードを開くが、単純なエラーは見当たらない。どうやら本格的にバグってしまったようだ。

 これはかなり面倒なデバッグがいるかもしれないと思いながら、改めて再起動をかける。

 くそっ、こんなことがあるかよ!

 そう口走った時、勝手にmessengerが立ち上がり、新着メッセージが入る。

「全部見えていますよ」

 北村ジュンは首を伸ばしてメッセージを覗き込む。

 そんな、ばかな・・・・・・


 すると次のメッセージが入る。

「深川明子さんへのクラッキングをただちに停止しなさい。神からの制裁を受けたくなければ」

 自分が液体水素みたいになってしまったのを瞬間的に自覚する。

 いったい、どこのどいつに・・・・・・


 爆発しそうな心臓を抱えながら、最強のノートパソコンを投げ捨て、デスクトップパソコンを起動し、メールボックスを確認する。そこには世界各国の友達からの受信メールが並んでいる。敵が侵入するならここからだ。


 まさかアカウントが盗まれたわけじゃないだろう? 

 ちゃんと管理していたはずだ!


 すると、また勝手にプログラムが立ち上がり、勝手にソースコードが記されていく。次の瞬間、画面が切り替わり、テーマ音楽が流れ、空からアンパンマンが飛んでくる。

「やい、気多キタ順一郎ジュンイチロウ、君のようなクラッカーのクズを僕は絶対に許さない」


 ふざけんな。なんで俺の本名を知ってやがる?

 北村ジュンは全身から汗が停止したのを感じる。


「はっはっはー、何をそんなに焦ってるんだ? 生ゴミみたいな顔をしてるぞ、このバイキン野郎。これで君の顔のデータ画像も入手できたぞ。もはや君にできることはただ1つだ。深川明子さんへの攻撃を直ちにやめることだ」


 北村ジュンはパソコンからカメラを引き抜き、時速132㎞のストレートで壁に投げつけた。カメラはカニの甲羅が割れるようなエグい音を立てたものの、壊れたようには見えない。さすが北村ジュンが自ら作り込んだ製品だ。


 ちくしょう、どうやらマジでハッキングされちまったようだな。

 北村ジュンはパソコンをシャットダウンして、首筋の汗を拭いた。


 なるほどな、カウンセリングルームのサーバーからネットワークに侵入してきたんだな。

 クソッ、でもどうやって俺のパソコンにまで入り込んできたんだ! 

 セキュリティは万全なはずなんだ!


 シャットダウンされて暗くなったパソコンの画面には、歯を食いしばり、猛獣のような目をした顔がくっきりと映り込んでいる。


 そういえば、最近、ちょっと気が緩んでいたかもしれないな。

 まあ、過ぎたことをあれこれ考えたって埒が開かねえ。

 ミッション変更、先にコイツをぶっ殺す!


 北村ジュンは部屋のキャビネットの奥に仕舞っておいた秘密のモバイルパソコンを立ち上げ、事務所用のネットワークを切断した。長く複雑なパスワードを3カ所入力し、携帯式のルーターを使ってインターネットに接続し、メールボックスを開いた。

 奴はここから入ってきたんだ。今から正体を突き止めてやるから、待ってろ。

 その時、1通のメールに目が留まった。

 昨日怜音から送られてきた添付メールだ。

 タイトルは「一応確認願います」とある。昨日、何の気なしに添付ファイルを開くと、このカウンセリングルームのHPから取ってきた画像が貼り付けてあった。一体何だろうとは思ったが、怜音のすることだからと思い、さして気にとめなかった。


 なるほど、こいつが「トロイの木馬」だったわけだな。

 俺としたことが、完全に油断してしまった!

 北村ジュンは髪を掻きむしり、テーブルを思いっきり叩いた。


 送信元をサーチしていると、再び画面がフリーズし、勝手にプログラムが動き出した。

 お、おい、うそだろ、一体どうなってるんだ!


 テーマ曲に乗ってアンパンマンが登場する。

「はっはっはー。気多順一郎君、まんまと引っかかったようだね。君は今、そのパソコンに入っている全ての情報を僕に提供してくれたんだ。君が手塩にかけて作り込んだMaCもちゃーんとコピーさせてもらったよ。ざっと見たところ、君が企んでいることは完全な犯罪だ。裁きを受けるべきだ。でもボクはアンパンマン。特別に3日だけ猶予を与えてあげよう。それまでに君は身辺整理を済まして警察に出頭するんだ。その方が君の身のためだ。いいね!」


 うおおおおおおーーーーっ!


 北村ジュンは秘密のモバイルパソコンを膝の上でたたき折った。

 このパソコンには、厳重なセキュリティのもとに過去のデータを保存していたのだ。いったい、どうやって、こんな短時間で、こいつまでハッキングされたというんだ?


「ちょっと、どうしたのよ、ついに狂っちゃったの?」

 怜音がドアの向こうで声を掛ける。北村ジュンは途切れる息をどうにか整える。

「自己嫌悪ですよ。でも、大丈夫、怜音さんからのオーダーは何があっても、必ず実行しますんで」


 北村ジュンはドアを開け、外に立っている白衣を着たままの怜音と対峙した。衝動的に怜音を抱きしめ、キスをした。

 怜音は、本物の狂人の勢いに圧倒された。

「少しだけ時間をください。新しいパソコンを作らなければならなくなったので、今夜は徹夜します。それと、ここから出て作業したいのです」

「何をそんなに焦りまくってるのよ?」

「この建物の中にはWi-Fiが飛んでます。さっきのミッションが失敗したのは、そのせいです。だから、完全に外部に出て、そこで作業したいんです」

「全然意味が分かんない」

「とにかく、2日だけ時間がほしい。怜音さんのリベンジは必ず実現します。それと、もうひとつだけお願いがあるんです。今日は、ボクの方からのオーダーですよ」


 怜音は北村ジュンの言われるがままに、3階の居室に入り、ベッドになだれ込んだ。

 猛獣と化した北村ジュンを、怜音はほんとうに恐ろしいと思った。

 だから君の目的って、いったい何なのよ??

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