Scene40 サイバー・アサシネーション

「にわかには信じがたいことだけど、もしかしてサイバー・アサシネーションかもしれませんね。要するに『サイバー攻撃による暗殺』です」

 角瓶かくびん正文まさふみはフェイスブックのメッセージに返信してきた。

「私の研究室にその分野の研究生がいるので、明日改めて確認をとってみましょう」


「ありがとうございます! 私の恋人は今どこにいるのかさえ分からない状態です。メールも既読になりません。大変急いでいます。犯人が特定できればすぐにでも動き出したいのです。御多忙中とは存じますが、その旨、御理解いただけると幸いです」


「承知しました。相手はすでに計画を実行に移しているんですね。恐ろしいことですよ。いや、もしかすると、これはとんでもないことになりかねません。サイバー・バイオ・ハザードに発展する可能性もあります。不特定多数の人間の脳がハッキングされ、悪意のあるプログラマーにマインドコントロールされてしまうという危機です。取り急ぎ、そのサングラスを送付してください。

送付先:京都市〇〇〇〇〇 京都工業大学大学院 先端科学研究科 C棟201研究室 角瓶正文」


「ありがとうございます。心より感謝申し上げます。明日の朝一に速達で送付いたします」


 最後のメッセージを送付した後、インターネットでサイバー・アサシネーションについて検索したが、該当がなかった。まだ世の中に出ていない驚異、ということだろうか。


❷ 

 研究室からメールが入ったのは、2日後の夕方だった。角瓶自らではなく、研究生からだった。

「はじめまして、京都工業大学の後期博士課程に在籍するイエウェイです。出身は香港で、角瓶先生の研究室で主に情報工学と人工知能を研究しています。角瓶先生から話を聞き、今回の件を担当するに至りました。どうぞよろしくお願いします。

 さて、さっそくサングラスを解析しました。その結果、あれは、サングラスの形をしたウエラブル端末でした。フレームの中にはtDCSのためのデバイスが組み込まれています。これは『経頭蓋直流刺激』と言って、脳内に電磁波を流して記憶や認知を操作するもので、これまでは空想上のデバイスとしてしか考えられていませんでした。

 フレームにはマイコンと電波の受信装置と、両方のこめかみ辺りには電極もあります。超小型であるにもかかわらず、相当なパワーを持った電極です。その他、当方では解明できない部品も組み込まれていて、相当な技術者が制作したものと思われます。ただ、残念ながら、これがどんな目的で作られ、どんな効果を得ようとしたものかは不明です。そこで、私から、提案があるのです・・・・・・」


「ずいぶんとお久しぶりじゃない。お元気だった? すっごく心配してたのよお」

 怜音はそう言い、明子の両肩を抱いた。予想以上に疲弊している明子の姿を見て、頬がほころぶ。

「すみません、とんだご迷惑をおかけしました」

「ま、無事で良かったじゃない。どうぞ、おかけになって」

 明子は怜音の指示通りにハンドバッグを床に置き、カウンセリング用の椅子に座った。


 怜音は一旦立ち上がり、ブラインドを閉じて夕陽を完全に遮った。玄関から金色の光が漏れているだけで、部屋の中はしっとりと暗い。モーツアルトのピアノ協奏曲がかすかに流れている。


「鎌倉でひどい目に遭ったみたいね?」

「透さんから聞いたのですね?」

 怜音は冷酷な目をしたまま鼻で息を吐いた。

「あの虫けらね」

「虫けら?」

「哀れな男よ。付き合ったところで何の得にもならない」

「えっ、え? どういうことですか?」

「あなたはあの男から負のオーラを受けてる。欲望しかないあの男に、あなたはさみしさのあまりすがりついている。その結果、あの男から心のエネルギーを吸い取られてるのよ。鎌倉での発作はすべてあの男のせいよ」

 明子は、割れたガラスの先の空間を見ているような表情をした。


「あの男はね、鎌倉であなたがいなくなってから、神にでも懇願するような顔して私の所に駆け込んできたわ。その時、私は全てを見抜いたのよ。人間の顔には、追い詰められたときにこそはっきりと本性が顕れるものなのよ」

 疲れ果てた明子の表情には、動揺の色があからさまに上塗りされた。


「大丈夫よ。それも今となってはそんなに大した話じゃないから。あなたはわ」

 明子はまっすぐに怜音を見た。


「まあ、とりあえず再会の乾杯。楽しく飲みましょ。素敵なワインを冷やしてるのよ」

 怜音はゆっくり立ち上がり、自分のデスクに置いていたワインボトルのコルクを手馴れた手つきで抜き、流麗な形状をしたデキャンタに注いだ。

「でも、診察室でお酒なんて?」

「いいのよ。診察はとっくに終わってるんだから。あなたは私にとっては特別な存在。今日はあなたと2人きりの時間を過ごしたいのよ」

 怜音は明子にワイングラスを持たせ、デキャンタの中で適度にワインを回した後、優雅に注いだ。それから、乾杯して、自分のグラスに一口つけた。


「どうぞ、飲んで。今日のためにとっておいたスペシャルなワインよ。大丈夫、毒なんか入ってないわ。だって、私も飲んでるんだから」

「そんなこと、少しも疑ってません」

 明子は雪化粧のような笑みを浮かべた。


 睡眠薬を入れたら簡単だけど、後で死体を解剖されたら面倒臭いことになるから、そんなことはしないわよ。

 これは私のためのお酒。だって、この瞬間のために生きてきたんだから、楽しくやらないと損だわ。

 怜音がワインを喉の奥に流し込んだ後、明子も少し口をつけた。

「どお? いいワインでしょ」

「ええ、おいしいです」

 普段からワインを飲まない明子にはその味などよく分からない。ただ、グラスの中の色はたしかに美しく、深い。何だか血のようでもある。


「ところで、最後に教えてほしいのよ」

「最後、ですか?」

「鎌倉で何が起きたの?」

 明子は両手で大事にワイングラスを持ったまま答える。

「記憶が蘇ってきたんです」

「亡くなった御主人の記憶ね?」

 明子は捕虜のようにがっくりとうなずいた。怜音はそんな明子にすり寄り、頭を撫でた。

「もう少し詳しく教えて」

「私、これまで、封印してきたんですけど、夫を裏切ったことがあるんです。その夫以外の男の人が何度も現れて、私に声を掛けるのです」

「そう、で、一体何て言ってきたの?」

「お前と出会ってなかったら俺は死んでいなかったって、私をつかもうとしてくるのです。夫はその人の背後に立っていて、2人一緒に私を睨んでくる。そのうち、周りの山が燃えて、マグマが流れ出すんです。でも私は死なない。マグマの海の中で燃えながら溺れるんです。でも、死ねないのです!」

 明子は頭を抱えて嗚咽した。


「そうだったのね、私も詳しくは知らなかったわ。全部話していいのよ、これで最後だから」

 シルバーのフレームの眼鏡をした怜音は、顔を明子の頭の上に載せ、目を血走らせた。


「原発の事故で最愛の夫を亡くした後、私は死を考えていました。子どももいなかったし、両親も他界していました。夫がいなくなった以上、自分をこの世につなげるものはなにもありませんでした。その時、私に声を掛けてくれる人がいたのです」


 怜音は右手で明子の髪を撫でながら、左手は強大な力で握りしめた。もし手元にナイフがあれば、そのまま刺し殺してもいいと思った。

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