Scene37 ヴァーチャルな出来事

 ホテルNAGISAの玄関の自動ドアを抜けると、いきなり真夏の日差しが全身にまとわりついてきた。その後で、蝉の合唱サラウンドがたたみかけてくる。

 隣に明子がいない喪失感を覚えながら、由比ヶ浜に向かって大きく息を吸い込む。


 浜辺歌男は最後まで表情を崩さずに、見送りに出てくれた。半歩後ろには浜辺美声が立っている。

「ありがとうございました。きっと忘れられないホテルになりますよ」

 透は支配人と握手をした。その端正なヘアスタイルには、三角巾の跡がくっきりと残っている。妻は、その変形した髪型をさっきから気にしている。

「こちらこそ、一生忘れられないお客様にますよ」

 支配人は手の力をぎゅっと入れて、そう返してきた。農業をしている人らしい、ごつごつした頼もしい手だ。


 タクシーに乗り込んだあとで、浜辺歌男は「お役に立てませんでしたが、お客様の幸福を心からお祈りしております」と声を掛けてきた。背後には、長年の潮風にさらされたホテルの看板が最後の陽光を受けている。


 浜辺歌男と美声は、並んで立ち、手を振ってくれた。最初の信号を過ぎ、左にカーブしてホテルが見えなくなると同時に、その姿も消滅した。


 あのホテルのことは、絶対に忘れられない。

 できれは、いい想い出として記憶にとどめておきたい。

 そのためにも、どうしても明子の居場所を突き止めなければならない。

 透はリュックサックの中から、パワーグラスをとりだした。自分の目にあてがってみようと思ったが、いかんせんサイズが小さすぎるのでやめた。


 なあ、明子、君が抱えるっていうのは、西洋人が関わってるんだね。その人はいったい誰なんだろう?

 君がそんな思い出深いホテルにあえて俺を連れて行ったのはどんな意図があるんだろう? それとも、ただ、君の天然キャラがなせるわざだったのかな? 

 再びパワーグラスに視線を落とす。

 だって君は、こんなに大事にしているものをあっさりと忘れてしまう人なんだ。


「だめだな、こりゃ」

 北村ジュンは背伸びをしながら、ペーパードリップで淹れた濃いめのコーヒーに口をつけた。

 パソコン部屋を出ると、昨日遅くまで怜音と語り合った談話スペースの窓から、あふれんばかりの日差しが降り注いでいる。あと少しで9時になろうとしている。


 怜音はまだ上の部屋で寝ている。

 電話を掛けると、ようやく目を覚ました。

「昨日飲み過ぎちゃったのね。頭が鉛みたいになってるわ。午前中は予約が入ってないから、休診にするわ。悪いけど、ホームページで知らせてくれないかしら。それと、玄関に午前中休診のプレートを掛けといてくれる」

 やれやれ、まったく困ったパトロンだと思いながら、北村ジュンは指示通りに動く。

 面倒臭いのでカウンセリングルームのパソコンじゃなく、自分のパソコンでホームページの情報を更新する。まさかこのわずかな時間にこのパソコンがネットワークを経由してハッキングされるなんてあり得ないだろうと思いながら、さっさと用件を片付ける。


 怜音が2階に降りてきたのは11時前だった。シャワーを浴びてござっぱりとした様子で北村ジュンの肩越しにパソコンを覗き込んできた。

「どう、調子は?」

「だめですね。全く反応なしです」

「つまり、サングラスを付けてないってことね」

 北村ジュンは無言で頷く。

「クソね」

 怜音はすっと背を伸ばし、再び3階へと上がっていった。その後ろ姿は、北村ジュンの闘争心に火を付けた。

 大丈夫ですよ、怜音さん。俺は出来ない仕事は引き受けないんだから。やると言った仕事は、必ずやり遂げますよ。


 北村ジュンは全く動かないプログラムに一旦見切りを付け、Linuxをスリープに切り替えた。

 それからコーヒーカップを手に取り、ブラインドの角度を変えた。

 菊ヶ浜は今日も青い。

 容赦なく照りつける日差しに、砂浜を歩いている人はいない。


 深川さん。

 あんたとは、とんでもない縁がありましたよ。

 まさか、あなたの嫁まで葬ることになるとは、思いもしませんでした。

 奇遇というか運命というか、冷静に考えようとすればするほど、鳥肌が立ちますよ。

 世界は思ったより狭いっていうことなんですかね? それとも、俺とあんたは前世からの宿縁で結ばれてでもいたんですかね?

 でもね、俺は、悪いけど、生き続けますよ。

 誰も俺の存在に気づくことは出来ない。すべてはなんですから。


 あんたには感謝しなけりゃならないね。

 あんたへのリベンジに燃えている間に、俺は大きくスキルアップし、世界観もぐーんと広がりましたよ。研究に必要なガッツも身につけたし、心から信頼できる仲間も作った。パトロンもできた。いや、パトロンっていうのはあまりにビジネスライクにすぎますね。

 怜音は俺の永遠の恋人ですよ。

 俺はあんたを超えたんだ。あの時あんたが持っていたものを、遅ればせながら、手に入れたんですよ。


 俺はあんたを許さないよ。あんたは俺を、人前でこき下ろしたんだ。

 しかも、今でもずっと俺に取り憑いてる。


 でもね、深川さん、残念ながら、このゲームは俺の勝ちですよ。

 俺はこれから生き続けるんだ。やがて、社会を支配してみせますよ。

 いやいや、そう恨みなさんなって。そもそもあんたが俺を侮辱したところから始まったんだ。今の状態は俺の努力の成果なんだから、恨まれるのは筋違いっていうもんですよ。


 北村ジュンは大きめなコーヒーカップを口に付けた後、昨日からの汗が染みついた前髪をゆっくりとかきあげた。

 それからコーヒーカップを白い窓枠に置き、両手の指の骨を鳴らした。

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