Scene38 世界の反転

 1人きりで鎌倉から帰ってきたその日の夕方、透は早速怜音のカウンセリングルームを訪ねた。

「それで、まだ見つかってないの、明子さん?」

「そうなんです。電話にも出ないし、メールは既読にもなりません。一体どこで何してるんだろう・・・・・・。でも、そこまで悲観はしてないんです。きっと戻ってくるはずですから」

 透はトートバッグからパワーグラスを取り出した。

 怜音は思わず「あ」という声を上げ、いびつな形に空いた口を手で塞いだ。


「こんなに大事なものを置いていくなんて、いかにも明子らしいなって、笑いが出てきますよね。そのうちこれを取りに帰るはずです。少なくとも、怜音さんには連絡が入ってきますよ」

 自分の顔がこわばっていることをはっきりと自覚した怜音は、すぐに立ち上がり、窓の外へと視線を逸らした。白衣からは石けんのような香りが立ち上がる。

 怜音は透に背を向けたまま、何も言わずに立ちすくむ。


「どうかしましたか?」

「ん? いや、最近ちょっと疲れ気味でね、頭痛がするのよ」

 怜音は横顔だけ透に向けた。

「それは失礼しました。長居は無用ですね。とにかく、もし明子から連絡が入ったら、知らせてほしいんです。パワーグラスは僕が預かっていますから」


 その時、2階へと続く階段の上の床から軋む音がした。

 なるほど、そういうことだったのか、と北村ジュンは心でつぶやく。

 やっぱり、次の手を考えなきゃならんな。

 本気でやるんなら、小ざかしいことを試しても無駄に時間がかかるだけだ。とっておきのデバイスを使って、手っ取り早くミッション遂行といくしかないな・・・・・・


 アパートに帰ったとき、透は変な感覚に囚われていた。

 これまで当たり前だと思っていた現実から、身を引きはがされたような感じ。まるで脱皮したみたいだ。これまでの自分が全くの他人に思えてしまうような感じ。

 旅行から帰った後というものは、こんなものなのだろうか?


 それとも鎌倉に入る瞬間のあの感覚――あたかも別世界に突入していくような感覚は、実体を伴っていたというのだろうか?


 怜音も別人に見える。

 あの人はさっき、これまで見たことのない顔を浮かべたのか、はたまた、自分の方に何らかの変化が起こった結果そう見えたのか?

 

 透はソファに座り、ケーブルテレビをつけた。

 ちょうどバドミントンの世界選手権の準決勝の中継を放送していて、中国とインドネシアの女性ペアがめまぐるしくシャトルを打ち合っている。その様を漠然と眺めながら、冷蔵庫に残っていたハイネケンの缶を開ける。鎌倉に行く前からずっと冷やしていたので、手の表皮に張り付くように冷たい。


 ビールを喉に流し込んだ途端、頭の中に新しい世界観が誕生したような気分になった。おれはまるで、誰かによって描かれた小説の中を生かされているみたいだ、と。


 バッグからパワーグラスを取り出し、部屋の明かりにかざしてみる。

 レンズは少し汚れている。円覚寺や寿福寺での明子を思い出すと、今すぐにでも会いたくなる。自分は明子に愛想を尽かされたのだろうか?

 もしそうだとしたら、今すぐにでも会って話をしなければ済まない。


 限りなく黒に近い紫色をした太いフレームの不思議なサングラス。こいつだけが、唯一、自分と明子をつなぐデバイスだ。


 あれっ、そもそもこれって、いったい何だっけ?


 明くる日の夕方、再び怜音のカウンセリングルームを訪ねた。


「どうしたの、ひどい顔してるわよ。明子さんから連絡でもあったの?」

「ないですよ。怜音さんの方こそ、連絡はありませんでしたか?」

「なしのつぶてよ」

 透はいきなりパワーグラスを取り出した。

「これなんですけど、怜音さんのパワーが入っているということですよね?」

 怜音は一瞬、首を絞められたような顔をした。

「そうよ」

「明子の失踪の理由について、ずっと考えているんです。やっぱり、鎌倉で何かあったとしか思えないんです。彼女はずっと僕と一緒にいた。他の誰かと出会ったわけじゃありません」

 怜音は目を細め、白くて細い腕を組んだ。


「明子は幻覚を見ていました。何かを懺悔し、誰かに謝罪し続けました。その間、ずっとこのパワーグラスをしていました。レンズの内側に何かが映っていたんでしょうか?」

 怜音は嘲笑を浮かべる。

「明子さんは精神を病んでいるからね」

「それだけじゃない。すごく気になることがあるんです」

「気になること?」

 怜音は自分のデスクに移動し、そこに置いてある経口補水液を紙コップに注いで飲んだ。


「明子が肌の白い西洋人と仲が良かったっていう話を、ご存じですか?」

 怜音は経口補水液を喉に詰まらせて、溺れている人のように激しく咳き込んだ。

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