Scene36 美神のシルエット
❶
北村ジュンが目を覚ました瞬間、猛獣にまたがるヒンドゥーの女神がこっち睨んでいた。女神は今にもタペストリーから飛び出し、制裁を与えようとしている。
隣では怜音が裸で眠っている。
大丈夫だ、ここはインドのジャングルなんかじゃない。
遮光カーテンのすき間からは、菊ヶ浜から差し込む朝陽が漏れている。
体中がベタつき、汗の臭いが漂っている。
ベッドサイドに置いてある飲みかけのミネラルウォーターを喉に流し込んだ後で、もう1度、女神を見る。
っていうかさ、あなたは俺に何を言いたいんですか?
あなたが何を説教したって、無駄ですよ。
だが女神は全く動じず、8本の手で弓と刀を振りかざし、こっちを見下ろしている。今にも罰を与えようといわんばかりの迫力だ。
うぜぇ。
北村ジュンはもう1度ペットボトルを口にくわえる。
怜音はシャットダウンしたパソコンのように全く動かない。
この2体の女神に挟み込まれた北村ジュンは身動きがとれなくなった。あの時の記憶が蘇ってくる。
周りから挟み込まれて、己の無能さを突きつけられた瞬間・・・・・・
❷
「要はさ、センスの問題なんだよなぁ」
深川泰彦は北村ジュンが解析したデータを見ながら、そう言い放った。その言いぶりには、自信に満ちた冷酷さがぷんぷんと感じられた。
「世の中にはな、単純計算がデキる奴なんて腐るほどいるよ。でもな、センスのある奴となると、ごく限られてくるもんだ。無能な奴がいくら努力したって、全く意味をなさない。ただの自己満足だよ」
大学院の研究室には深川の他数名の大学院生がパソコンに向かっていた。北村は先輩である深川のデスクの後ろに突っ立ていた。
北村ジュンは、深川の言葉の中に、自分に対する嘲笑をありありと感じた。自分が時間をかけて解析したデータを、この人はいつも簡単に一蹴した。
深川は自分よりも必ず前にいた。
不眠不休で挙げた研究成果も、深川の先行研究によってすでに明らかにされていたか、もしくは涼しい顔で軽々と論破された。たしかにこの男にはセンスというものがあることは認めざるをえなかった。
深川の論文は評価が高く、ジャーナルに取り上げられていたし、国内外での学会発表でも大きな成果を挙げていた。すでにいくつかの有力企業との共同研究があり、大学院生にして数件の競争的資金の獲得もあった。
それゆえ研究室のメンバーの中で、自分が深川によって苦しめられていることに気づくものはいなかった。それよりも、先輩から指摘を受けても這い上がっていくくらいのガッツがないと海外で通用する研究者になれないということは、みんな分かっていた。
だが、当の本人は、深川の陰でビクビクしながら生きていくことに限界を感じた。科学者の世界とは、熾烈な競争社会だった。実力本位のサバイバルレースだ。深川がいる以上、自分は何をやったところで2番手以下にしかなれないと痛感していた。
「なあ、おい」
ある時、深川が話しかけてきた。
北村ジュンは他の研究生もいる中で何を言われるか、ナイフで脅されたようにヒヤッとした。
「お前の研究のビジョンって、いったい何なんだ?」
「ビ、ビジョン?」
「そうだよ。お前が社会に対して成し遂げたい研究目的のことだ」
北村ジュンは咄嗟に答えられなかった。
目的?
そういえば自分は何のために素粒子を研究しているのか、明確な解答をもっていない。
好きだから?
そうだ、自分はもともと物理が好きなのだ。だが、それは目的じゃない。
必死に自問自答している北村ジュンを一瞥した深川は、灼熱のサハラ砂漠のような笑みを浮かべた。
他の研究生たちも、コーラを飲んだりしながら、同じような笑みを浮かべてきた。この研究室の中には居場所などないことを知った。
結局、博士課程の2年目にして自主退学することにした。
❸
よお、女神さん、あんたが神様ならば、俺の心が見えるかよ。
俺にはもう自尊心がないんだ。
そんな人間に対して、あんたは何を言おうとしてるんだ?
だが女神は表情を変えず、こっちを見下ろしている。
そのうち、その顔は研究室の中の深川泰彦の顔にすり替わってきた。
「お前にはセンスがないんだ。どれだけ頑張っても、自己満足なんだよ」
うぜぇ!
北村は手に持ったペットボトルを深川に向かって投げつけた。大きな音と共に、水が飛び散った。
後には女神が残った。
女神は顔を濡らしながらも、表情を一切変えることなく、猛獣にまたがり、武器を手にしたまま、こっちを見下ろしている。
呼吸がものすごく激しくなっている。ハッキングされた心臓を装着しているみたいだ。
怜音は起きる気配すらない。
北村ジュンは怜音の髪を撫で、その胸に唇をつけた。
怜音さん、やっぱりあんたは最高に美しいよ。
あんただけは、高校生の頃から、何にも変わっちゃいねえ。
タオルで飛び散った水を拭いた後、死んだように眠る怜音にタオルケットを掛け、2階のパソコン部屋へと降りていった。
階段を降りながら、自分は痩せこけた野良犬にでもなったような錯覚を感じた。
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