Scene35 頭の中のミルクセーキ

 ホテルNAGISAに戻ったときになってはじめて、透は、またやってしまった、と思った。

 恐る恐る時計を見るとまだ6時半。せっかく朝食の時間を30分遅くしてもらったのに、逆に早く到着してしまった。

 これはまた浜辺歌男に嫌みを言われると思いながら、覚悟とともに自動ドアを抜けると、呼び鈴が鳴り、奥から浜辺美声が出てきた。

「おかえりなさいませ」 

 夫とは正反対の、実にまっとうな応対だ。

「あのお、支配人は?」

「あ、今ちょうど出て行きましたよ。バターが足りなくなったからって、自転車でコンビニに向かったところです」

 助かった、と思った。


 支配人からのプレッシャーを説明すると、浜辺美声は、気の毒そうな顔をありありと浮かべて、お客さまに対してとんだ不都合を感じさせてしまって申し訳ございませんと代わりに頭を下げた。


「いえいえ、いいんですよ。きっと支配人は、客に対して一番良い状態で料理を出したいという配慮があるのだと分かっていますから」

 浜辺美声は砂浜に夕陽が沁みていくかのように、徐々に笑顔を浮かべた。

「昨日のスクランブルエッグを食べりゃ、納得できますよ。あんなシンプルな料理にあそこまで感激できるだなんて、初めての経験でしたね」

「そう言っていただけると、支配人も喜ぶでしょうね。いえね、このホテルは、実は、今日で終わりなんです」

「え?」

「つまり、あなた様が、本ホテルにおける、最後のお客様になられるのです」

 キャプチャー画のように静止してしまった透の顔を見て、浜辺美声はまた申し訳なさそうな顔を浮かべた。


「戦後、支配人の父が開業してから69年の歴史に幕を閉じることになります」

 彼女はろうそくの炎のような笑顔を浮かべながら視線を落とした。

 

「昔はずいぶんと賑わったんですけどね。特にこの時期には全国からお客さんが来てくれていました。外国の方も多かったですね」

 壁に貼ってある古い三角のタペストリーが彼女の肩越しに見える。そこには「横須賀」とあり、米軍基地のイラストが描かれている。

「でも、最近は市内にもホテルができましたし、交通の便も良くなったから、鎌倉に足を運ぶお客様も、横浜とか都心に泊まられるようですね。それでも、支配人は、自分のやり方を曲げてまでもお客様を増やそうとはしなかったんです」


「そういえば、由比ヶ浜でサザンオールスターズのコンサートもあったんですよね?」

「よくご存じで。もう何年前になりますかね。あの時なんかは半年以上も前から予約でいっぱいになっていました。幸せな時代でした」

 ひょっとして、と透は思った。

 彼女は亡くなった主人とここに泊まったかも知れない。いや、間違いない。このホテルを予約したのは明子だ。


「どうかなさいましたか?」

「い、いえ、今朝突然いなくなった彼女のことを思い出してしまいました」

「失礼ですが、ご結婚なさっているのですか?」

 浜辺美声は慎重に聞いてくる。

「結婚はしていません」

「じゃあ、お付き合いなさっているんですね?」

 この女性には、思わず何でも話してしまいそうな衝動に駆られる。ふかふかの草原のように器が大きい。


「付き合っているかどうか、じつは自分でもよく分からないんです。彼女は過去に御主人を亡くしているんです」

 浜辺美声は口を開けて両手を頬にあてがった。「きわめて優しい顔をしたムンクの叫び」といった表情で透を見つめている。


「今回、初めて彼女と旅をするんだけど、目的地はこの鎌倉じゃなくって、彼女自身の心のような気がしてなりませんね。どんなに行ったとしても、決してたどり着けそうにないですけど」

 透は苦笑を浮かべた。


 浜辺美声は、昔から解けなかったなぞなぞの答えがやっと分かったかのような仕草で、小さく何度か頷いた。

「申し上げにくいことですが、何らかの手がかりになればと思って言いますが、あの方は、過去に何度かこのホテルを利用してくださいました」

 透は笑顔を停止した。


 あぁ、やっぱりだ、彼女は過去に主人と一緒にこのホテルに泊まって、由比ヶ浜で開かれたサザンオールスターズのコンサートに行ったのだ。今回は追憶の旅だった。早朝にここを出ていったのは、事前の計画通りだったのかもしれない。自分はおちょくられていたのだ・・・・・・


「ちなみに、失礼ですが、亡くなった御主人とは、日本人の方でしょうか?」

 浜辺美声は、わずかな水脈をコツコツと探るかのような言い方で聞いてくる。

「もちろん、日本人ですよ。原子力のエンジニアだったようです」

 彼女は、雑巾を固く絞ったかのような渋い表情を浮かべている。

 透は、明子と深川氏がまさにこのレストランで朝食を採った光景を思い浮かべ、焼けるような嫉妬と対峙している。


「何かの手がかりになればと思って、あえて申しますが、私が多くのお客様の中であの方のことを良く覚えているのには、理由があるんです」

 透は浜辺美声の口に目を遣った。その奥は深い井戸のように続いているようだ。

「あの方は、西洋人と一緒にこのホテルに来られたのです」

「西洋人、ですか?」

「はい。肌が真っ白で、ブロンズのヘアの方でした。とても背が高くて印象に残っています」


 頭の中がミルクセーキみたいにぐちゃぐちゃになった。

「そ、そんなこと・・・・・・。いったい、いつのことですか?」

「たしか、5、6年前といったところでしょうか。非常に短い期間に2、3回はご利用なさったような記憶があります」

「ちょっと、信じられない。人違いの可能性だってあるんじゃないですか?」

 浜辺美声は腕を組んだまま記憶を振り絞っている。


「いいえ、間違いないと思います。と言いますのも、あの西洋人の方は、ずいぶんと昔からここを利用されていたのです。ご家族などと一緒に宿泊されていました。それが、5、6年前の数回だけ、初めて見る女性とご一緒だったんです。それが、あなたさまのお連れの方でした。間違いございません」

 頭の中のミルクセーキは混ざりすぎて、もはや何が何だか分からなくなっている。


「もし、その記憶が正しいものだと仮定しましょう。では、その時彼女はどんな様子でしたか。幸せそうでした?」

 浜辺美声は下唇を噛みしめて、さらなる記憶をたどった。


「それが、あの方の顔立ちは本当にはっきりと覚えているのですが、表情の記憶がないのです」

「では、その西洋人の方はどうでしたか?」

「彼は、あまり楽しそうではなかった。いえ、表向きはにこやかだったんですが、何と言いますか、女性にずいぶんと気を遣っているようでした」

「分からない」

 いったい何がどうなっているのか、全く分からない。

 自分だけがドッキリを仕掛けられているのではないかとさえ疑ってしまう。


 その時、厨房の奥から浜辺歌男が現れた。

「あらっ、もうお帰りになってたんですね?」

 咄嗟に時計を見ると、あと少しで7時になるところだ。

「いかがでしたか? 成果は見られましたか?」

 残念ながら、と力無く答えると、彼は、そうですか、と同情してくれた。

「でしたら、お食事はいかがいたしましょう? さしあたりお1人様分を準備するということでよろしいですか?」

 透はそれでいいとごく簡潔に言った。

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