Scene20 レガシーホテル

 そのホテルはウエブサイトの画像と比べると、リアルに年季が入っていた。看板も潮風で錆びていて、建物自体も長いことリニューアルした形跡が全く感じられない。

 ロビーに入るための階段を上がるとき、タクシーの運転手も肩を貸してくれた。顎まで続く立派なもみあげを持ち、アメリカンフットボールの選手のようなたくましい体格の運転手だった。

「色々ご心配をおかけしました。たぶん、もう大丈夫です」

「もうちょっとお手伝いしてあげたいところですがね」

 運転手は心残りな表情をありありと浮かべ、帽子に手をやって頭を下げた。夕陽の熱を含む潮風と波の音が風景を包み込む。


 タクシーのエンジン音が完全に遠ざかった後で、明子の顔を覗き込む。どうやら意識が戻ってきたみたいだ。

「すごく迷惑をかけてしまったみたいね」

 明子は祈祷により蘇生した人のような顔で虚空を見つめる。

「覚えてるかい?」

「覚えてる。同じ幻覚を見た」

「疲れてるんだ。ホテルに来て正解だったよ」


 立て付けの悪い自動ドアがぎこちなく開いた先にフロントがあり、その奥にロビーが広がっている。海が見えるように設計されたロビーはレストランとしても使われているらしく、机と椅子が10セット程度レイアウトされている。

 水色の絨毯といい、くすんだ壁紙といい、目に見える景物すべてに長い時間の経過が染みついている。

 その時、呼び鈴が鳴り、白い鼻髭を生やし蝶ネクタイをした初老の男性が出迎えてくれた。スーツの胸ポケットに付けられたプラスティックの名札にはこう書かれている。


HOTEL NAGISA 支配人 浜辺歌男


 これは本名だろうかと、まず透は思った。本名だったら、この人の親はいったいどういう意図で命名したのだろうかと次に思った。

 だが、今はそんなことを考えている余裕もない。とっととチェックインを済ませて、早く部屋に連れて行かなければならない。

 すると浜辺歌男なる支配人は表情ひとつ変えずに言った。

「たしか、山下さま御一行のチェックインは本日20時ということになっていたと思いますが?」

「ええ、でも、彼女の体調が急に悪くなってしまったのでこの時間になってしまいました」

 浜辺歌男はロビーにかけてある時計に嫌みっぽい視線を送った。17時50分を指している。

「ひょっとしてチェックインの準備ができてないとか?」

「いいえ、準備なら昨日のうちに終わっております」

「昨日、からですか?」

 ロビーを見渡しても宿泊客はおろか、人の影など見当たらない。

「じゃあ、問題はないですよね?」

「問題はないですね」

 浜辺歌男は全く表情を変えずに答える。この人、本当に商売する気があるのだろうかと怪訝に思うが、とにかくそんなことに頓着している場合ではない。

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