Scene18 幸運と不運のわずかな差
❶
「少しは良くなったかい?」
透は明子のブラウスの襟元を緩め、パワーグラスを外して、湧き水を染みこませたハンドタオルで額の汗を拭いた。
明子は息をしているが、ほとんど死人のようだ。
寿福寺の裏山を生ぬるい風が吹き抜ける。木立のこすれる音が耳に入ってきた時、ようやく明子の顔にかすかな生命感が戻ってきたように思われた。
明子は起き上がろうとする。
「まだ頭が痛むんだろう。無理しなくていいよ。この日陰で少し休んでから、タクシーで駅まで行って、新幹線に乗ろう」
「し、新幹線って?」
「今日のうちに帰った方がいいよ。それもキツいなら、近くで病院を探そう」
「私は、大丈夫。せっかく来たんだから、このまま帰るわけにはいかない」
明子は再び立ち上がろうとするが、途中で頓挫する。そのまま水路になだれ込み、嘔吐した。
「この頭痛はね、メタフィジカルな問題で起きてるの。だから、どこにいようが、病院に行こうが、解決はできない」
ハンドタオルを口元に押しつけながら言う。
「じゃあ、どうすればいいんだい?」
「待つしかない」
「またそれか」
「ごめんなさいね。私をここに置いていってもらっても良いの、本当に。回復したら電話をするから、街に出ていってちょうだい」
やぐらを覆う木立の影が濃くなってきた。相変わらず蝉は鳴いている。
「君がいないとちっとも楽しくないよ」
「あなたに甘えるのも良くないって、心じゃ思っているのよ。これ以上私の問題にあなたを巻き込むことはできないって」
「俺は君にもっと甘えてもらいたい。俺と君の関係もメタフィジカルなものなんだよ」
明子は口元を抑えたまま、目を伏せた。目の周りにはパワーグラスの跡がうっすらと残っている。
透は彼女の額にキスをした。
「実朝に見られたかな?」
明子を縛り付けていた力がふっと抜ける。
「墓の前で、不謹慎だったかな?」
明子は何か言いたげではあったが、ハンドタオルによって塞がれた口からは言葉は出てこなかった。
❷
「それって、どういうことよ?」
「原因は明快です。グッドタイミングでサングラスを外したんです」
「なぜ? どうして?」
「そりゃ分かりませんよ。何か事情があるんでしょう。グーグルに調べてもらいましょうか?」
怜音は奥歯を噛みしめながらも、なすすべなく画面を見つめる。さっきまで激しく乱高下を繰り返していたMaCのスコアは、冬眠に入ったかのように微動だにしない。
「バレたのかしら?」
「うーん、どうでしょうかね」
「クッソーーーーーッ」
怜音は握りしめた両手をテーブルに叩きつけた。弾みでテーブルの上のミネラルウォーターが飛び跳ねた。
「ギャグですね」
北村ジュンはそう言い、ペットボトルを元の位置に戻した。
「クソッ、あいつも悪運が強いな」と怜音は言う。
「いえいえ、悪運じゃない、幸運ですよ。ギリギリセーフ」
北村ジュンは野球の審判がするようにセーフのジェスチャーをした。
「あんた、さっきから私をおちょっくってるの?」
「おちょくってなんかいませんよ。MaCが作動する前提条件は、相手がサングラスをすることだって、何度も言ってるじゃないですか。こうなってしまえば、打つ手はありません」
「つまり、非は私にあるとでも?」
「いいえ」
北村ジュンはうんざりした表情を浮かべる。
「ボクの使命は、あくまで怜音さんからのミッションを成功させることのみです。もし相手がサングラスをしないのであれば、次の手を考えなければなりません」
「たとえば?」
「そうですね……、たとえば、もし今日のうちにやるのであれば、宿泊先のホテルのネットワークに忍び込んで、建物ごと爆破しますか」
「できるの、そんなこと?」
「あ、そっか、ホテルはプラントじゃなかったですね。じゃあ、JRの制御システムに入って、列車事故を起こすとか。でも、そんなことしたら、多くの巻き添えが出てしまうか」
怜音はイリオモテヤマネコのような目で睨んでいる。
「ま、今日明日のうちにサングラスを装着しなかったら、こっちに帰ってきてから攻撃する方が無難かもしれませんね。それでいいですか?」
「できれば、てっとり早くやりたいけどね。さっき、1回やる気になってるからね」
「いずれにせよ、もう少し様子を見てみましょう。ただの気まぐれで外しただけかもしれませんから」
イリオモテヤマネコの瞳が細くなる。
「大丈夫ですよ、怜音さん。どうせミッションは成功しますよ。イメージしたことはすべて現実になるんです」
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