Scene15 血とビールの匂い
❶
明子が次に行きたいと言ってきたのは、
「このお寺は鎌倉五山でも第3位に位置づけられるのに、これまで行ったことがなかったの。だから、今日がすごく良い機会だと思って」
剥き出しになった岩肌に蝉の声が響き渡っている。
「切通し」とは鎌倉時代に岩を掘削して作られた細くて険しい道で、外敵の侵入を防ぐのに有効だったのだと、ガイドブックに書いてあった。
「鎌倉五山っていうのは?」
「鎌倉時代に創設された臨済宗のお寺のことで、それぞれに序列が決まっていたの。第1位が
明子は足下を視線を落としながら説明する。
「建長寺はたしかに大きなお寺なんだけど、私は、なぜか、あんまりパワーを感じないの。だいぶ前にサザンオールスターズがあそこでライブをしたくらいだから、あまりお寺っていう感じがしないのかも」
「なるほど」
「鎌倉五山の他のお寺にも行ったことがあるけど、寿福寺だけはこれまで行く機会がなかったの。ひょっとして、今日のために縁が取ってあったのかな?」
そんな軽妙な言葉が出るあたり、気分もだいぶ良くなってきたのだろうと少しだけ胸をなで下ろす。
「実はね、私、鎌倉にはいろんな想い出が詰まってるの」
岩肌を取り囲む木々から漏れる光線がパワーグラスの上で鋭く砕け散る。
「亡くなった彼が鎌倉の海をすごく気に入っててね、毎年のように海水浴をしたり花火を見たりしてたのよ。サザンオールスターズが浜辺でライブしたのを見に行ったこともある」
「サザンオールスターズと縁があるんだね」
「彼がファンだったのよ」
「なるほど」
「彼はあれほど湘南の海に行ったのに、北鎌倉に来たいとはあまり言わなかった。建長寺とか円覚寺を歩いたのは彼がいなくなった後のことなのね。だから私はいつも1人で、生きてるのか死んでるのか自分でもよく分からない状態で、お寺を訪ねながら彼の面影ばかりを探していた」
まるで地面に書かれた文字を読み上げているかのようだ。
「さっき円覚寺に足を踏み入れた途端に具合が悪くなったのは、あの頃の残像があったのかもしれない。亡くなった彼を探していた日々の記憶が頭の中に浮かんで、頭の奥がくらくらしてきたの。ああ、私、このまま死ぬのかな、でもここで死ねるのなら、本望かな、とか、そんなことまで考えた」
「死んじゃダメだ」
その時、2人の目の前が明るくなり、緑に囲まれた住宅地が現れた。切通しの岩肌もここで終わりだ。
「鎌倉の真ん中に出てきたのね」
明子は息を吸い込み、湘南の海へと続く青い空を見渡した。
❷
「それにしても、今日も空が真っ青ね。申し訳ないわ」
怜音はオフィス2階の窓から菊ヶ浜の情景を眺めながら、グラスに注いだビールを飲んだ。
「あぁ、おいしい。すっごいよく冷えてる」
北村ジュンは怜音の横で、近所のスーパーで買った冷製パスタを食べながら、スマートフォンをなぞっている。
「さぞかし楽しい旅行になってるでしょうね」
「たぶん、そうでしょう」
「すごく気分がいいわ。ねぇジュン君、あなたもビールを飲みなさいよ」
「こんな真っ昼間から出来上がってしまったら、ミッションが遂行できなくなりますよ」
「何言ってんのよ。目をつむっててもパソコンが打てるくせに」
「いえいえ、入力を間違えるととんでもないことになりかねませんよ。変死でもされたら、我々にも捜査の手は伸びてきますよ」
「あらあら、人殺しをしたことのあるジュン君が、えらく臆病になってるじゃない」
怜音は2本目のビールを開けた。
「あなたは何も分かっていない」
北村ジュンはスマホをジーンズのポケットにしまい込み、音を立ててパスタをすすった。
「あれ? 気分を害しちゃったのかな? 誤解しないでよね。あなたは私にとっては最高のパートナーなのよ」
北村ジュンはゴミを捨て、パソコン室に入っていった。
怜音はチェアにもたれながら改めて菊ヶ浜の情景に目を遣った。
真っ白な浜辺に人の姿はない。
もう一口ビールを飲むと、どこかから声が聞こえる。
紛れもない、アーロン・リーンの声だ。彼は妻である自分に向かって声を掛けている。でも怜音は応えない。応えるはずがない。
ここで応えたら自分の負けだと思う。
ところが、アーロンはべつに焦ったり不安になったりしない。彼の熱い視線の先にあるのは、自分ではない。あの深川明子だ!
2人は白い砂浜の上を歩いている。アーロンは明子の話に熱心に耳を傾けている。彼は流木の上に座り、女の肩に手をやる。その瞬間、灼熱の砂浜はぐんぐんと温度を上げ、海も赤く染まる。
あと少しで抱き合うはずだった2人は砂に呑み込まれ、マグマの海は激しく沸き上がる……
❸
怜音は右手から流血していることに気づく。手の中にはグチャグチャに握りしめられたビールのアルミ缶がある。血のついた手で、思わず目元を触る。ひょっとしてジュンが作ったサングラスをしているのかと思った。
だが、そこにはサングラスなどない。
どうやら私のarea.Cには、わざわざハッキングされなくともマグマが貼り付いているようね。
もう、終わりだわ……
怜音は目の横についたペンキのような血に頓着するふうもなく、城跡のある小さな山の緑に目を遣った。
十分にエアコンの効いた部屋には、血の臭いとビールの匂いが混じり合っている。
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