Scene11 ようこそ! 鎌倉ワールドへ

 大船おおふな駅を発車した後の鬱蒼うっそうとした茂みを抜けると、間もなく北鎌倉駅に到着します、という男性のアナウンスがノイズと共に車内の空気を揺らした。

 意外にも早く着いたものだと思った瞬間、透は不思議な眩暈めまいを覚えた。


 夢から覚めたような感じ。

 いや、今から夢の世界に入っていく感じ、かもしれない?


 車内がふっと暗くなる。木々の緑が日差しを遮っているのだ。

「よかった、今日は天気が良いみたいで」

 明子はいつのまにか目を開けている。

「君の日ごろの行いがいいからだよ」

 彼女は何も答えずに、火葬された骨のように乾ききった笑みを浮かべた。

「いよいよ鎌倉に入ったのね」

 明子の瞳には次第に生気が戻ってくる。

 透は、依然として頭の中の空気の変わったような錯覚を感じている。なんだろう、この独特の感じは?

 これが鎌倉なのだろうか?


「今からまず、北鎌倉から攻めていくわけだね?」

「そうね」

「なんだか、ワクワクするね」

 透は、そのワクワクとは、必ずしも自分にとっていい結果をもたらすものではないような気がする。


大海の磯もとどろによする波 われてくだけて裂けて散るかも


 明子はハミングでもするかのように実朝の和歌を口ずさんだ。

「今日は海もきれいなんでしょうね」


 北鎌倉駅の駅舎は、思った以上に年季が入っていて、こないだ明子と2人で見たケーブルテレビに映っていたローカル線の駅と大して変わらない風情だった。

 その古民家のような駅舎のコインロッカーにトラベルバッグを預けた後、明子は透の少し前を颯爽さっそうと歩き始めた。


「ここへ来たら、やっぱり円覚寺に行くべきだと勝手に決めつけてるんだけど、大丈夫?」

「もちろんだよ。行き先はすべて君に任せるよ」

 透はそう言いながら、昨晩ガイドブックで細かく予習しておいた鎌倉の地図と観光スポットを頭の中に広げた。円覚寺と言えば建長寺と並び北鎌倉を、いや我が国を代表する臨済宗の名刹だと書いてあった。

 鎌倉時代の後期、幕府の執権しっけんだった北条時宗がそうから無学祖元むがくそげん招聘しょうへいして建立した寺だ。


 駅から続く小径に現れた石段の手前で明子は軽く頭を下げ、足を踏み入れた。

 両側に並ぶ大きな杉によって日差しが遮られ、蝉の声が間近に迫ってくる。透は背中と胸元にかなり汗をかいているのを感じる。

 そういえば、ここは夏目漱石の『門』の舞台にもなった寺だ。100年前に漱石が目にしたそのままの風情が残っていると書いてあった。


 山門をくぐると、辺りはぱあっと開け、左手に拝観受付が現れる。日差しがふんだんに降り注いでいる中、生々しい緑の香りが漂っている。100年の香りだ。


 さあ、行くぞ! と思った瞬間、明子がよろけた。

 慌てて彼女に肩を貸し、とりあえず拝観受付の対面に設けられた東屋あずまやの日陰に入り、木のベンチに座らせた。

「どうした? 気分でも悪くなったの?」

 明子はパワーグラスの中の目をきつく閉じ、花柄のハンカチを口元にあてがった。

「ちょっと、眩暈がしちゃって」

 顔はたちまち青白くなっている。ついさっきとはまるで別人だ。

「疲れたのかもしれないよ」

「運動不足なのかな? 石段を上がっていると、頭のすごく深いところが締め付けられるような感じがしたの」

 そう言った後、明子は頭を抱えてうずくまり、うなり声を上げた。  

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