Scene10 もうひとりの明子

 明子が社会保険事務所を訪ねてきたのは2年前のことだった。


 ちょうど昼食時で、窓口担当者は皆外に出払っていたために、奥の席で新聞を読んでいた自分が対応することになった。

 用件は年金の確認だった。

 彼女が自署した名前を見た時、目が覚めたような心地がした。


「明子」とは自分が過去に深く愛した女性の名前と同じだったからだ。


 この名前をもつ女性と出会うことは案外と少ない。50代以上の女性にはちょくちょく見られるようだが、それ以下の世代となると、ほとんど見ない。

 透は目の前に現れた明子を観察しながら、ありきたりの挨拶をした。彼女は無表情のまま頭を下げた。


 彼女が過去に夫を亡くしていることを知ったのは、業務の過程であった。未亡人になった後で支払い額が変わっていたが、そのまま数年間放置していたところにダイレクトメールが届いたのだ、と明子は機械的に説明した。

 なんて不思議な女性だろう。

 明子に対する第一印象だ。

 だが、明子の何が不思議なのかがうまく説明できない。彼女は、美しく咲く花が宿命的に抱えるはかなさのような影をもっている。

 透は明子に興味を持った。


 年金の処理が片付いた後、萩市内の図書館で明子とばったり会った。

 それ以降、何度か同じ場所で姿を見かけて挨拶を交わすようになった。館内のカフェで一緒にコーヒーを飲むようになるまで、1年近くの時間を要した。


「御主人を亡くしたと言ってたけど?」

 透は言いにくい質問をした後で、コーヒーカップを口に付けた。

「原発の事故に巻き込まれたんです。彼は原子力のエンジニアでした」

「それは、何と言っていいやら……」

「いいんです。べつに同情してほしいわけじゃないんですよ。ただ、今、彼の人生の隅々を思い起こしてみても、彼が死ななければならなかった理由がどこにも見つからないんです。彼を思うと、人生とは、何とたまらないものかと、絶望的な気分になります」

 明子はそう言った後で途端に表情を暗くした。


 透はなすすべなくコーヒーに口を付けた。あの時の、煮すぎたような苦々しいコーヒーの味は今でも記憶に染みついている。

「もし、僕にできることがあれば」

 透が言うと、明子は死んだ魚のような瞳でカップの中のコーヒーを見つめた。

「ありがとうございます。でも、この問題は、私と彼だけのことですから」

 その突き放されたような言いぶりに、かえって、彼女の問題解決に関わりたいという気持ちが強くなった。


 それからというもの、図書館へ行くとほぼ毎日明子の姿があった。

 彼女には大きな資産があることは年金記録により漠然と分かっていた。彼女はあえて働く必要などなかった。

 国策によって事故死した夫の保険金や原子力機構から支払われた金があることは、付き合い始めてから分かったことだ。

 付き合う。

 自分たちは全く正式な仲ではないことを透は気にしている。行きがかり上、何となく話をするようになり、最近では、明子がアパートに来るようになったという関係にすぎない。

 明子と付き合っていると思いたい。だが、明子の方が自分との仲をどう捉えているかは、彼女の口から聞いたわけではない。


「大事なのは言葉じゃないわ」

 ある時、川島怜音はアドバイスをくれた。彼女は明子専属の優秀なカウンセラーであり、透の話にも深く傾聴してくれる。

 元々はよその人間のようだが、奇しくも明子と同じタイミングでこの萩に事務所を構えたことは怜音自身の口から聞いた。

「2人の大人が定期的に会って、語り合う。その事実があれば今は十分だと思うけど」

「でも僕は、付き合っているって思いたいですね。友達にも、自分の彼女として紹介したいですし。それに、将来的なことだって、どうしても考えてしまうし」

 怜音は唇の端をくっと吊り上げた後、白衣の襟元を整えた。

「明子さんがなぜあなたの所に来るか分かる?」

「分かりません」

 恐る恐る答えた。

 だが、怜音は含み笑いを浮かべるだけで、それ以上何も教えなかった。


「聞くのが怖いですが、僕は明子にからかわれてるんでしょうか?」

「からかわれてる? 面白い見解ね。でも、そういうことじゃないわ。心が傷ついている彼女があなたの所に足を運ぶのには、もちろんちゃんとした理由があるわ」

 怜音は誠実にそう言った。

「でもね、それは説明できる理由じゃないの。私には分かるの、彼女の感覚が」

 透は正直ほっとした。もしきついことを言われたら、自分も深手を負いかねない。

「そのうち透君にも分かるわ。すべて時間が解決してくれるから」


 明子のことを強く想うようになってからもう2年が過ぎた。いったいこの時間が何を解決してくれただろうと思う。


 横須賀線の列車に揺れる明子の横顔を見るにつけ、自分たちには何の進歩もないような気がしてならない。

 ただ時間だけが流れていく。

 もしかすると、それが「答え」なのかと思うと、自分の方こそたまらなくなる。

 パワーグラスの内側の瞳は、静かに閉じている。

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