Scene9 横須賀線

 木曜日の昼前の横須賀線は、シートにゆったりと座ることができるほどのゆとりがある。列車は心地よいリズムで揺れながら、西へと走っていく。


 明子は透の部屋で見たローカル線の旅番組のことをふと思いだす。あの番組を見ていると、ふーっと霊感が降りてきたのだ。いろんな想い出の詰まった鎌倉に久しぶりに行ってみたいと。


 あの番組はたまたま見たものか、それとも、見る運命にあったのか?


 自分は後者だと思う。

 世の中の全ては目に見えない力によって動かされている。あの番組を見たという事実は、自分が鎌倉に行くためにによって用意された運命的なイベントだったのだと思う。


「それにしても、君と2人で鎌倉に旅行ができるだなんて、夢みたいだよ」

 透の言葉に、明子はたちまち現実感覚の中に戻される。

 あの番組を見たことが運命ならば、この旅に同行している透の存在も自分の人生をどこかに運んでいるのかもしれない?

「気分はどうだい?」

「う、うん、だいぶいいみたいね。久しぶりに鎌倉に行けること自体、すごく楽しみだし。こんな気持ち、いったい、いつ以来だろうと思う」

 明子の視線の先には、真夏の日差しに照らされた工場地帯が広がっている。彼女は自分ではなく、窓の外の光景に向かって話しかけているようだと透は思う。


「ねえ、透さん?」

 明子は言う。

「芥川龍之介の『蜜柑』って読んだことある?」

 『羅生門』なら高校生の時に読んだ記憶があるが、その小説は聞いたことがない。

「そのお話の舞台は、この横須賀線だったわね、そういえば」


 明子は大学の国文科を出ただけあって、文学の話を好んでする。大した目的もなく経済学部に進学した自分にとっては、文学なんて遙か遠い世界だ。

「主な登場人物は、芥川本人を色濃く反映する主人公と娘の2人だけ」

 明子は湯船に浸かっているような表情で語り出す。

「主人公は憂鬱を抱えながら、2等の切符を持って座っている、その隣に薄汚い格好をした娘が座るの。その子は3等の切符を握りしめている。つまり、分からなかったのね、乗車の仕組みが」

「自由席のチケットでグリーン車に乗ってしまうっていう感じだね」

「そうね。憂鬱に苛立っていた主人公は、娘の無頓着さをものすごく不快に思うのよ。その時彼が直面していた薄暗い現実をその子が象徴してるみたいな気持ちになって、仕方なく目を閉じるの。そしたらね、その娘ときたら、トンネルに入る前に、必死になって窓を開けようとするの」

「いるね、そういうタイプの人、今でも」

 明子は列車に揺られながら話を続ける。


「でね、主人公の思いとは裏腹に、重たい窓は開いちゃうの。ものすごい煙が車内に入ってきて、主人公は咳き込んだ。娘を思いっきり叱り飛ばそうと思った瞬間、列車はトンネルを出て、新鮮な田園地帯の空気が入ってきた。そしたらね、娘は、今開けた窓から身を乗り出して何かを始めたのよ。何だと思う?」

 答えなど浮かんでこない。


「トンネルを出た所にあった踏切の向こうに、背の低い男の子が3人立っていたの。娘はそこに向かって、懐に持っていた蜜柑を投げた。娘はわざわざ自分を見送りに来てくれた弟たちに、蜜柑を投げ与えたのね」

 明子はそう言い、パワーグラスの内側の瞳を細めて窓の外を見た。


「娘は身売りに出される所だったのよ。女だし、下には弟たちがいるから、家を継ぐことも期待されていない。だから、出稼ぎに行かされたのね。その旅立ちの瞬間に弟たちのことを気遣うだなんて、どんなに強いメンタルだろうって、言葉に詰まる」

 踏切の音が急接近したかと思うと、たちまち遠くへと消えていった。

「人生って、たまらないものだと思う」


 天井から下げられた車内広告には、今週発売の週刊誌の見出しが躍っている。芸能人の不倫、政治スキャンダル、他国の紛争。

「私ね、昔、この横須賀線の列車に乗るたびに『蜜柑』のことを思い出しては、たまらない気分になったの。そしてその思いは、今も変わらない」


 窓の外はありふれた住宅地に変わった。芥川が生きていた時代はどんな風景だったのだろうと想像してみる。

「娘は無頓着だった。でも彼女は、弟たちのことだけを一心不乱に考えていた。私ね、そういう気持ちって、すごくよく分かるのよ」

「君は配慮のある女性だよ」

 車窓の外に流れていく景色に視線を漠然と見ながら、透は言った。


「ううん、それは違う。私は、透さんに対して無頓着だし、すごく失礼だと思ってるのよ。私の頭の中は、どうにもできないことで膨れあがってて、それに囚われながら生きてる。蜜柑を投げることすらできない」

「でも、その小説に出てくる娘は、その後幸せになったかもしれない」

 明子の口の動きがピタリと止まった。


「人生の瞬間を捉えれば、そりゃ、たまらないこともたくさんあるだろう。でも、その瞬間はいつかは終わりが来るはずだ。たまらなさを乗り越えたとき、人生の喜びが来るのだと、俺は信じたいね」

 明子はパワーグラスの内側の瞳を閉じて、小さくため息をついた。

「それは、究極のプラス思考ね」


 住宅地を過ぎた列車は、東戸塚駅に着いた。

 降りる人も乗る人もまばらだ。微細な人の行き来を眺めながら、透は明子の過去について思いを巡らした。

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