Scene6 パワーグラス
明くる日、仕事が終わった後、透は川島怜音のカウンセリングルームを訪ねた。クライアントとの面談室になっている1階の窓からは、夕暮れの菊ヶ浜の情景が、視線と同じ高さで見渡せる。
波打ち際では男女が釣り竿を持っている。その手前を自転車の高校生が横切る。
「大丈夫よ、彼女は」
怜音はそう言って近づいてきて、ローズピンク色の眼鏡を通して透を見る。
確かにこの人からは、心の中を見透かされているような雰囲気を感じる。無意識のうちに防御体勢に入ってしまう。
「で、他に、何か言ってるの?」
「いえ、全体的には、ポジティブになってるような気もするんです。あのパワーグラスのお陰かもしれません」
「あれ、ね。彼女が気に入ってくれればうれしいわ。ずっとかけてた方が良いわよ。私の気が込められてるし、多くのクライアントの方からも楽になったっていうレビューをもらってるの」
「それはすごいですね。何か、特別な素材が入ってるんですか?」
「パワーストーンが入ってるの。信頼できる業者に加工してもらったのよ」
「でも、パワーグラスはあくまで対処療法であって、根本原因を治療することにはならないでしょう」
透はまっすぐに怜音を見る。彼女はつとめて冷静だ。
「僕が望むのは、明子が普通の生活を送ることなんです。そのためには、彼女自身が過去を消し去るだけの強さをもってほしい」
怜音は冷淡な表情でウーロン茶に口を付ける。
「どうかしましたか?」
「いいえ、別に。透君が言うように、過去を消し去ることができたらどんなに楽だろうかって、ふと考えてみたの」
「それしかないと思うんです。過ぎたことにいつまでも囚われていては、次へは進めない。彼女には亡くなった御主人のことを諦めて、将来へと目を向けてほしいんです」
怜音は目を細めながら、ふっと口元を緩めた。
「明子さんの御主人がどうやって亡くなったのか、詳しく聞いてる?」
「だいたいのところは」
「原発の事故で亡くなったってとこまでは知ってるのね?」
透は頷く。
「明子さんはね、御主人のことを深ーく愛してたのよ。その思いは、第3者が無責任に想像できるようなものじゃない」
怜音は口調を強める。
「彼女と御主人は、深い絆で結ばれていた。運命的な関係だったのよ。夫を突然亡くした哀しみと、それが事故による不運な死だったという現実は、彼女の心をぐちゃぐちゃにした。それに」
「それに?」
「明子さんのプライバシーがあるから全てを話すわけにはいかないけどね、彼女は他にも問題を抱えていた」
「問題、ですか?」
「もちろん、透君には話してないでしょ?」
「え、ええ。残念ながら……」
怜音は口元だけで笑った。
「そんなに落胆する必要はないわ。誰にも話すことができないヤバい問題だから。私にだって、すべてを打ち明けてはいないのよ」
「でも、怜音さんはその問題の一部を知っているんですね?」
「私には見えるの、すべてが」
今度は怜音が透をまっすぐ見た。透は思わず背中をぴんと伸ばした。
「彼女が過去を完全に消し去ることは、第3者が想像するよりも遙かに難しい」
「僕って、第3者ですかね?」
怜音は、君は第4者ね、と頭の中で言い放ったが、口には出さない。彼には今から果たしてもらわなければならない重要な役割があるのだ。
「透君は、明子さんに一番近い人であることは間違いないわ。彼女をこの世界につなぎ止めることができるのは、私と君だけよ。だからこうやってお互いにコミュニケーションを取り合っていきたいのよ」
透はがっくりと肩を落としながら、力なく頷いた。
「私たちがついている以上、明子さんは大丈夫よ。あなたが言うとおり、彼女はまだ過去の恋を忘れ去ることができていない。でもね、恋って盲目なの。理性ではどうすることもできないし、逆に、どうにかしようとすればするほど強く縛られてしまう。時間の解決を待つしかないのよ」
「いったいどれほどの時間がかかるんだろう……」
「はっきりとは分からない。でもね、私には見えるのよ。彼女が楽になる瞬間が。そんなに遠くない未来よ」
「本当ですか?」
怜音は、今度は目だけで笑った。
「それまで僕は、どうすればいいんでしょう?」
「明子さんは今、ポジティブになっているって言ってたわね。パワーグラスをかけている以上、心のエネルギーが上がっていくから、あれを外さないようにして、今はそっとしておいてあげた方がいいかもしれないわね」
「彼女は鎌倉に行きたいと言いだしたんです」
怜音は蛇のように首をくいと伸ばした。
「そ、それは素敵じゃない。彼女に負担がかからないのであれば、いい気分転換になるんじゃないかな」
「怜音さんのお陰ですよ」
透はクライアント用の椅子にもたれて窓の外を見た。
ちょうどその時、2階でトイレの音がした。やたらと気ぜわしい感じだ。いったい誰がいるのだろう?
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