Scene5 いざ、鎌倉!

「なんだか、お寺に行きたくなってきたわ」


 明子はソーダ水のような表情を浮かべたまま、ふとつぶやいた。

 彼女は透の部屋のソファに座って、アイスティを飲みながら、ケーブルテレビの旅番組を見ている。画面の中には、新緑豊かな無人駅のホームに、クリーム色に塗られたローカル線の車両が停車している。

 BGMはオリビア・ニュートンジョンの『そよ風の誘惑』だ。


「寺?」

「こういう番組を見てるとね、無性に、どこかに出かけたくなるの。それも、心が癒されるようなところに」

 憂いを帯びた瞳の真ん中が、小さな星のようにきらりと光った。

「そういえば、昔よく、鎌倉に行ってたなあ。すごくなつかしい」

 彼女の目は今この瞬間を見ていない。彼女はいつも脳に焼き付いた記憶の痕跡の中を生きている。


「鎌倉ってね、北と南で全然違うの。町の中心に鎌倉駅があって、そこから北は古い禅寺が並んでる。南は海に向かって開けてる。北と南のコントラストがすごくいい」


 明子はテレビの上の方に乾いた視線を送った。


 鎌倉に行ったことがない透には、景色がうまく想像できない。ただ、こんなにもよく話す明子は普段あまり見ないので、そっちの方に意識が流れる。

「じゃあ、行ってみるかい?」

 ためしに聞いてみると、明子は少し驚いた顔をして透を見る。


 ローカル線は次の駅に停車している。カメラは線路を離れて周辺に広がる海辺の景色を映している。理想的とも言えるほどの青空が広がり、海面はその青さを鏡のように反映し、波は白い飛沫しぶきをあげている。

「あぁ、きれい」


 BGMはホイットニー・ヒューストンの『そよ風の贈り物』に変わる。思わず透も画面に食い入る。

「そういえば、昔、源実朝さねともの和歌にハマったことがあってね」

「鎌倉幕府の将軍だっけ?」

「3代将軍よ」

 明子は和歌を口ずさむ。


 大海の磯もとどろによする波 われてくだけて裂けて散るかも

 

「われて、くだけて、裂けて、散るかも……。なんか、ことごとく飛び散っていく感じだな」

「私ね、この和歌を高校生の時に知ったのよ。古典の教科書に出ていてね、他の和歌と一緒に並ぶ中で、この和歌だけが3Dみたいに浮かび上がってきた」

「3D?」

「でも、先生は授業で取り扱ってくれなかったから、授業の合間にこの和歌についていろんな想像を巡らせたわね」

「どんなところが好きなんだい?」

 明子は眼鏡をかけ直す。彼女のカウンセラーである川島怜音からもらったという「パワーグラス」なるものだ。


「実朝は全てを諦めてるの。何に対しても抵抗しないの。彼は自分が暗殺されることすら予感していた。でも、その運命にさえも逆らおうとしなかった」

 明子は蝶が蜜を吸うようにストローに口を付けた。

「この和歌もね、無邪気な心で、見たままの景色を詠んでいる。だからこそ、哀しいのよ」

 透は小さくため息を吐きながら、また死の話か、と思った。


「じゃあ、せっかくだから見にいってみようよ、鎌倉の寺と海を」

 明子はテレビに目を向けていながら、画面を見てはいない。明子は時々こういう顔をする。彼女の瞳の中には誰も存在しない。パワーグラスに映るテレビの明かりだけがチカチカと動く。


 しばらくして彼女は、一段低い声で言う。

「でも、仕事のお休み、とれる?」

「有給休暇ならたっぷり余ってるよ」

 透はソファを立ってキッチンへ移動し、冷蔵庫から取り出したウイルキンソンのジンジャーエールをラッパ飲みした。


 明子はめったに外へは出たがらない。2人で外出するのは、何か限定された用事がある場合のみと決まっている。彼女は透に気を遣っているように見せているが、内心は、透と2人で町の中を歩くのを避けていることが伝わってくる。

「ということは、鎌倉に行くというのは現実的な話なんだね?」

 透はソファの背もたれから出ている彼女の後ろ頭を見た。

「今晩、よく考えてみて、それから決めることにするわ」

「いい返事を待ってるよ」

 明子はそっと立ち上がり、薄手のカーディガンを羽織った。

「もう帰っちゃうの?」

「うん、今の話をいろいろと考えてみたいから」


 明子はテレビの画面を尻目にかけながらキッチンを横切り、自ら玄関のドアを開けて外へと出た。夏の夕陽が彼女の白いカーディガンを一瞬にしてオレンジに染めた。


「よかった、パワーグラスをかけていて。全然眩しくないわ」

 明子はうれしそうな顔でレンズ越しに夕陽を見た。

「サングラスになってるの?」

「色がついてるみたいね。昼も夜も1日中かけていられるようにって、怜音さんが特別にオーダーしてくれたの」

「まったく、あの人の気遣いときたらほんとに細かいな」

「なにより、この眼鏡には怜音さんのが入ってるのよ。これをかけていると、邪気を払ってくれて雑念も消えるみたい。たしかに、さっきから少し気分が良いのよ。思わずお出かけしたくなるくらいに」

 濃い紫色のフレームが彼女の白い顔の上で映えている。


「じゃあ、一緒に鎌倉に行けるのを楽しみにしてもいいんだね?」

 明子はろうそくを消すかのようなため息を吐いた。

「いろんな想い出に浸りたいわ」

 不思議な言葉を残して、彼女はアパートの階段を下りていった。

 夕暮れに照らされる背中は、死を待つだけのカゲロウの白い羽のようにも見えて、なんだかゾッとした。 

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