Scene3 世界最先端プロジェクト

「それにしても、ジュン君、この1年であなたも相当進化したわね。お見事、としかいいようがないわ」

 1日のカウンセリングが終わった後、怜音は2階に上がってきた。


 彼女のカウンセリングルーム兼オフィス兼自宅は、菊ヶ浜きくがはまを見渡す3階建てのこぢんまりしたビルにある。3年前にこの山口県萩市に移住したのと同時に、ビルごと手に入れたのだ。

 彼女はカウンセラーの仕事をしながら、父から譲り受けた海外の不動産をいくつか所有していて、想像できないほどの資金を持っている。


 窓から差し込む日の光は、完熟したオレンジ色に染まっている。

 外では、砂浜に沿って作られた遊歩道を、ピンクで統一されたウエアを着た女性がランニングしている。AIロボットのようでもある。なかなかのハイペースだ。

 完全な夕刻となっても、海辺に出ている人は、そのランナー以外に見当たらない。

 紺色のインクのような空の色は、水平線に近づくにつれて濃くなる。城跡のある小さな指月しづき山は、黒く染められて浜辺に面している。

 静かだ。


 北村ジュンは怜音にいでもらった年代物のワイルドターキーをそっと口に入れる。肩まで伸びた髪は、汗をかいた首筋に、海藻みたいにピタリと貼り付いている。

 怜音はテーブルの上に置かれたサングラスを、どこか慎重な感じで手に取る。

「もちろん、これって、まだ世の中に出回ってないのよね?」

「もちろん」

「ジュン君が作ったの?」

「まあ、そういうことになるのかな? 正確に言うと、ボクは、設計して組み立てただけですけどね」

 彼は切り子のショットグラスに唇を付ける。さすが怜音が用意したウイスキーだ。味わい深い。


「ということは、このプロジェクトには、何人かが絡んでるのね?」

「ですね」

「例の世界中に散らばってるという仲間たちね?」

「彼らはどんなオーダーにも応えてくれます。ボクも彼らのオーダーには迅速に対応します。ほとんどが会ったことはない人だけど、結束は深いですよ」

「現実感なしね」

「傍から見ればそうかもしれませんね」

 北村ジュンはグラスをテーブルに置いた。

「彼らはみな頭がよくて、注意深いし、簡単に人を信用したりしない。情報も技術も絶対に漏洩しません。まあ、そうじゃないと信用しませんよ」

 怜音はモッツァレラチーズとスモークサーモンを、何となく残酷な手つきでフォークに刺して口に入れ、水割りのウイスキーを優雅に飲んだ。それから、白いシャツからはみ出ている黒のキャミソールの肩紐を指先で整えた。


「それより、どういう原理なの?」

「その辺は、できれば企業秘密ってことにしときたいんですけどね」

 北村ジュンは真顔で言う。

「私はあなたのパトロンよ」

 怜音が軽く噛みつくと、汚れた眼鏡の奥の北村ジュンの瞳は不自然に光る。


「ざっくり説明すると、そのフレームの内部にはIoTのための精密な部品がいくつか内蔵されています。それから、耳の後ろのパット部分には超小型の電極が組み込まれています」

「外から見た分には全く気づかないわね」

「ワイヤレス操作で脳に電磁波を流して得られた反応が、パソコンに同期されます。パソコン上で脳内データを加工することによって、脳内情報を自在に操ることができるという仕組みですね」

「よく分かるようで、何も分からないわね」

 北村ジュンはほくそ笑んだ後で、軽く咳払いする。

「あらゆるものがインターネットにつながる時代だからこそなせる技ですよ」

 怜音はテーブルに置かれたサングラスに目を遣る。マグマの恐怖が蘇る。 


「ご存じの通り、脳の中って、電気回路によって情報伝達されているわけです。ニューロンとシナプスは電気信号で実に多種多様な情報を複雑にやりとりしている」

 彼は研究者の表情で話を続ける。

「出来事はまず脳の中の海馬かいばに蓄積されて、短期記憶と長期記憶の選別が行われる。インパクトのある記憶は長期記憶として、大脳新皮質だいのうしんひしつに送り込まれる。ここまでなら高校生でも知ってる常識です」

「で?」

「最新の研究では、かなり複雑なことが明らかになってきてます。例えば、大脳新皮質の中の前頭前皮質ぜんとうぜんひしつというところでエングラム細胞が形成されていることが分かったんですよ」

「エングラム細胞?」

「そう、記憶の痕跡が残る細胞のことです」

「で?」

 怜音はどこか疲れのにじむ視線を北村ジュンに向けたまま、もう一度ミネラルウォーターに口を付ける。


「で、ボクの仲間は、エングラム細胞のさらに詳細な組成を世界で初めて発見したんです。詳しく説明すると、エングラム細胞のコアを探し当てたんです」

 自分の脳がマリアナ海溝と同じくらい深く感じられる。


「その核に直接電磁波を当てることによって、そこだけ特徴的なスコアが顕れることも同時に発見したんです。ボクたちはそれをデータ化し、加工もできる。人が頭のど真ん中で思い起こす記憶を、思い通りに操作することができるようになったんです」

「つまり勝手に人の脳に入り込んで、記憶の情報を盗んで、パソコン上で思い通りにいじくることができるようになったわけね。何となく、分かった気がするわ」

 北村ジュンの瞳には、いっそうの力が加わる。


「彼は、新たに発見したエングラム細胞のコアを『area.C』と名付けました。CとはCOREの頭文字です。そしてボクが、area.Cを操作するアプリケーションを開発して『MaC -マック-』と名付けたんです」

「MaC? なんだかパソコンみたいね」

「Manipulate area.C の略ですよ。もちろんそこにはアップルのソフトウエアよりも優れているっていうウイットも込めてるんですけどね」

「ま、大事なのはネーミングよりも機能の方だから」

 怜音は冷静を装っているが、心拍は上がっている。


「これまで脳波を計測する装置はかなり大がかりなものでした。でも、記憶1点にフォーカスした実験を繰り返してきたボクたちは、その分デバイスを小型化することに成功しました。CTスキャナや3Dプリンタ等を使ってクライアントのarea.Cの位置を正確に特定することさえできれば、サングラス形デバイスで脳の情報を取得できるんです」

「完全には理解できないけど、とにかくそのやり方でを殺すことが出来ればいいのよ」

 北村ジュンはゆっくりと力を込めて頷く。

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