第10話
足の怪我が回復し、問題なく歩けるようになったキャサリンは、屋敷を抜け出してオークの森に入った。目的はもちろん、ジョセフに会いに行くためだ。
自分の足で旧ドラモンド邸に向かうのは随分久しぶりだが、進むべき方向はしっかり覚えている。このボロボロに擦り切れたドレスを見たら、お父様はまた目を吊り上げて怒るだろうけれど、そんなことはいちいち気にしていられない。何だったら、家には帰らずに、そのままジョセフと暮らしたっていいのだから。
そうだ、そうすれば、もう夜中に屋敷を抜け出してコソコソ会う必要もないし、ジョセフとずっと一緒にいられる。何故もっと早く思いつかなかったのだろう。
待っててね、ジョセフ――久しぶりにジョセフに会える喜び、そしてジョセフと寝食を共にする生活を想像すると、キャサリンの頬は自然と緩み、乙女心は大きく弾んだ。
だが、旧ドラモンド邸に辿り着いたキャサリンは、その外観の変化に、しばし呆然とした。
朽ちることなく三百年以上の年月を過ごしてきたはずの館。なのに、キャサリンが怪我をして動けなくなっていたほんの少しの間に、館は朽ち果て、無残な姿を日に晒していたのである。窓ガラスは割れ、漆喰の壁には無数の罅が走り、木材が腐食したためか、窓から見える内部も荒廃が著しい。
「そんな……なに、これ……ジョセフ、ジョセフ!」
キャサリンはジョセフの名を叫びながら、屋敷の中へと駆け込んだ。
あの美しかったトレーサリのステンドグラスは粉々に割れて床に散乱し、高い天井はびっしりと蜘蛛の巣に覆われている。一歩床を踏むたびに夥しい量の埃が舞い上がり、キャサリンの喉や鼻腔に入り込んだ。
「ゲホッ、ゲホッ……ジョセフ! ねえ、いるのなら返事をしてよ! ジョセフ!」
キャサリンは咳き込みながらも錆びついたドアノブを捻り、最初の夜にジョセフが座っていた応接間へと入った。
埃まみれのテーブル、腐敗して中央で折れた長椅子。その長椅子の上に、ボロ布のように汚れた黒い布が投げ出されている。今にも抜け落ちそうな軋む床板を踏み鳴らしながら、キャサリンはその長椅子に向かい、汚れたボロ布を拾い上げる。
ところどころ擦り切れたりはしているが、それは確かに、ジョセフがいつも身に着けていた夜会服であった。
「ジョセフ……ジョセフーー!!」
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
「……!」
キャサリンは、もう何度見たかわからない悪夢から目を覚ました。
額には冷や汗が滲み、呼吸も胸の鼓動も乱れている。
また、この夢か――寝起きの気分は今日も最悪だ。
居室で実質的な監禁状態におかれるようになってから、既に一月もの時が過ぎた。
いつ眠ったのかもわからない。視界に映るのは、とっくの昔に見飽きてしまったベッドの天蓋だけ。暑くもないのに枕はいつもしっとりと湿っていて、キャサリンは目覚めるたび、自分が無意識のうちに涙を流していたことを知る。
窓から飛び降り足を痛めた直後に比べれば痛みはだいぶ和らいではいたが、まだ自分の足で立って歩けるほどには回復していない。足さえ思い通りに動いてくれたら、ここから脱出する手段なんていくらでも思い付くのに。あの夜、ジョセフに会いたい余りに、焦って窓から飛び降りた自分の軽率さを、悔やんでも悔やみきれないキャサリンだった。
足首の痛みと、自力では立つことすらままならない生活は、元来活発なキャサリンに極めて重い精神的苦痛を強いた。部屋に閉じ込められるだけでも大きなストレスなのに、窓から外を眺めることさえできない。足首が灼けるように痛むたびに、キャサリンは激しいもどかしさを覚えた。
しかし、最もキャサリンの心を蝕むのは、ジョセフに会えない寂しさ。そして、ジョセフは今どうしているだろうという不安だった。
あれだけ毎日獣の血を捧げていたにもかかわらず、さらにげっそりと窶れていったジョセフ。キャサリンは自分の足のことなどよりずっと、ジョセフの体のほうを案じていた。いかに不老不死の吸血鬼といえども、あの窶れようは只事ではない。三百年間一度も血を吸わなかったというぐらいだから、キャサリンが獲物を持って行かなかったら、そのままずっと血を飲まないつもりだったのではないか。だとしたら、彼は今頃――。
もし元通りに歩けるようになって、再び旧ドラモンド邸に行った時、そこにジョセフの姿はなく、さっき見た夢のように、朽ちかけた屋敷とあの夜会服だけが残されていたら――。最悪の事態を想像するたび、キャサリンは身を絞られるような不安に苛まれる。
人間と吸血鬼。非常識なキャサリンでも、これが許されない恋であることぐらいはわかっている。父セシル候も、口にこそ出さないが、キャサリンには王族か、それに準ずる家柄を持つ男子との結婚を望んでいるはずだ。そのために、セシル候はキャサリンがまだ幼い頃から、王侯が主催するパーティーに自分を何度も連れて行ったのだから。
父はパーティーの後、そこで出会った王侯の子息について、どこの貴族の子息で、家柄や人格がいかに素晴らしいかをうんざりするほどキャサリンに説いて聞かせた。だが、父が賞賛する男たちはどれもこれも歯の浮くような台詞ばかり吐くいけ好かない気障野郎ばかりで、キャサリンが強く興味を惹かれる人物は一人も現れなかったのだ。あの夜、ジョセフに出会うまでは。
もっと早く、躊躇わずに、私の血をジョセフに吸わせておけばよかった。そうすれば、きっと――。
足の痛みを堪えながら天蓋つきのベッドで寝返りを打ったキャサリンは、鉄格子の取りつけられた窓に向かって、震える声で呼びかけた。
「私のジョセフ、あなたは今、どこで何をしているの――? もし私が貴方のように蝙蝠に姿を変えられたら、あの鉄格子をすり抜けて、今すぐにでも会いにいくのに――」
しかし、キャサリンの願いは、冷たい鉄格子と窓ガラスの前で虚しく跳ね返される。
再びジンジンと疼きだした足首の痛みにキャサリンが目を閉じた直後。鉄格子の窓の外を、いつか彼女をオークの森に誘った、世にも珍しい模様を持つ美しい蝶が、ひらひらと妖しく舞い踊り――。
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
その頃ジョセフは、旧ドラモンド邸の応接間、いつもの長椅子にぐったりと体を横たえて、死の瞬間を待っていた。
吸血鬼として目覚めてから三百年。数え切れないほどの人が生まれ、死んでいった。その気の遠くなるような年月を、ジョセフはずっと、飢えと悲しみに耐え続けてきたのである。愛しいシャーロットの思い出だけを抱いて。
だが、その苦しみも、もうすぐ終わる。生前から願い続けた永遠の眠りが、ようやく自分にも訪れるのだ。この萎びた肉体は塵に還り、魂は浄化されて、私はようやく、この悍ましい吸血鬼の呪いから解放されるだろう。ずっと待ち侘びた救済であるはずだった。それなのに――。
今、ジョセフの心を支配しているのは、喜びでも安堵でもない。寂しさと虚無、そして一層深い悲しみ。何故だ――ジョセフは困惑していた。
ふと窓へと視線を転じると、窓の外には、見たこともない模様を持つ美しい蝶がひらひらと舞っているのが見える。その羽根から落ちる鱗粉が、月明かりを浴びて光の砂のように輝いたかと思うと、一瞬にして儚く闇へと消えてゆく。その幻想的な光景に目を奪われつつ、ジョセフの意識は、ここ数か月の記憶へと引き戻された。
突如として私の前に現れた、セシル家の美しい侯爵令嬢、キャサリン。
キャサリンとの別れを決意してから、ジョセフは胸にぽっかりと大きな穴が空いたような虚しさに襲われた。そして、元々尽きかけていたジョセフの魔力は、まるでその穴に吸い込まれるように、衰弱の度合いを著しく速めたのである。
忘れよう、忘れようと思うほどに、朗らかなキャサリンの声、薔薇の香水と汗が入り混じったキャサリンの匂い、吸い込まれるような緑色の瞳と屈託のない笑顔が思い起こされ、ジョセフの決意を掻き乱す。そう、今や、彼の心を支配しているのは、三百年前のシャーロットではなく、今ここにいるキャサリンであった。
もう会うまいと決心したはずなのに、ジョセフの心身はキャサリンを狂おしく求めていた。会ってどうなるものでもないし、キャサリンにとってはむしろ逆効果。それがわかっているにもかかわらず、何故こうも我が心はキャサリンを欲するのか――しかし、身を焼くような苦悩の中で、ジョセフは、三百年かけて気付くことができなかった或る後悔に、ようやく思い至った。
何故、現世に未練なく、自ら死を望んだ彼が吸血鬼として蘇ったのか。その答えに、ようやく気付いたのである。
三百年前、シャーロットの婚約が決まってから、ジョセフは一度もシャーロットに会うこと叶わず、直接別れを告げることも告げられることもなかった。たとえシャーロットの決心が揺るがぬものであったとしても、一目会って言葉を交わしたかった。それが彼の生前の最大の後悔であることに、ジョセフは今際の際になってようやく気付いたのだ。
そして、彼は再び決心した。この体が、この魔力が、この魂が消え去る前に、キャサリンに会い、別れを告げなければならない。それが、天に召されるはずだった私の魂が、吸血鬼として再び現世に舞い戻った目的であり、主がキャサリンをこの館に遣わされた理由なのだと。
問題は、既に風前の灯火となったジョセフの魔力で、広大なオークの森を越え、キャサリンの待つセシル家の屋敷まで辿り着けるかどうかということだった。森の只中で力尽き、朽ちた屍を晒すことになるかもしれない。だが、こうして迷っている間にも、ジョセフに残された僅かな魔力は、雨後の小さな水溜まりのように少しずつ干上がってゆくのだ。
最後にキャサリンに会い、彼女に別れを告げることさえできたなら、もうこの世に思い残すことは何もない。飢えと悲しみで渇いたジョセフの心に、三百年前、馬を飛ばしてセシル伯の屋敷へ向かったあの時の情熱が、再び沸々と湧き上がる。
ミイラのように痩せ細った体を長椅子からようやく起こしたジョセフは、三百年以上もの年月を共に過ごした旧ドラモンド邸を出て、なけなしの魔力で蝙蝠の姿に変化し、不気味なほど明るい満月が浮かぶ空へと飛び立った。
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