第11話

 ドンドン


「……ん」


 足の痛みのために寝付くことができず、浅い微睡みの中にいたキャサリンは、窓を叩く不可解な物音で目を覚ました。雨音のように細かくはないが、決して大きな音でもない。何か小さく柔らかいものが窓にぶつかっているような――。

 もしもキャサリンが深い眠りについていたら、目覚めることはまず無かったであろう、それは鈍く、くぐもった音だった。

 何の音だろう。ここはファーストフロアだから野兎や鼠ということは有り得ないし、蛾にしては音が大きすぎる……と、空を飛ぶ生物を次々に思い浮かべる。鳥、コウモリ――コウモリ?

 そう、コウモリ! ジョセフが来てくれたのかもしれない!


 その可能性に思い至ったキャサリンは、慌てて寝台から体を起こしたが、まだ一人で立ち上がることすら満足にはできないのだから、窓辺まで歩くことも到底無理だった。でも、窓の外にジョセフが来ているのなら、ここで寝ているわけにはいかない。腕を器用に使って少しずつ体の位置をずらしたキャサリンは、芋虫のように寝台から転がり落ち、したたかに床に体を打ち付けた。


「うっ……」


 思わず低い呻き声が漏れる。体も痛かったが、床に落ちた振動が響き、足に強い痛みが走ったのだ。しかし、悲鳴を上げてしまったら、部屋の前にいる見張りに気付かれてしまう恐れがある。キャサリンはどうにか悲鳴を噛み殺した。


 ただ、実はこの時、キャサリンの部屋の前で見張りをしている男の使用人は、廊下に座り込み扉に凭れかかりながら、居眠りと呼ぶには深すぎる眠りについていた。見張りとは言っても、満足に立つことすらできない怪我人の、一体何を監視する必要があろうか。当番の者が一応見張りに立ちはするが、実際は扉の前で眠りこけているものが大半であった。


 キャサリンはトカゲのように床を這って窓辺を目指す。怪我さえなければほんの数歩で行ける距離なのに、今のキャサリンにとってはひどく遠く感じられた。その間にも、鉄格子の窓からは、催促するように絶え間なく物音が続いている。

 そして、ようやく壁際に辿り着いたキャサリンは、膝を立てて壁に手をつき、窓の外を覗き込む。物音の正体は、やはり小さなコウモリの群れ――に化けたジョセフだった。最早懐かしささえ覚えるコウモリの群れが、何かを訴えるようにガラス窓に体を打ち付けていたのだ。

 キャサリンは急いで窓を開け、そのコウモリたちに語り掛ける。


「ジョセフ! 来てくれたのね!」

「キャサリン……その足は……どうしたのだ……」


 ジョセフの声にはいつもの張りが欠けているような気がしたが、キャサリンはジョセフが自分の元に来てくれただけで、動かない足でも飛び上がれそうなほど嬉しかった。何の前触れもなく突然会いに行かなくなったことを怒っているのではないかと不安だったが、ジョセフの第一声がキャサリンを気遣う言葉だったことで、キャサリンは胸を撫で下ろした。


「ああ、これね……ちょっと、うっかり怪我しちゃってさ……」

「歩けない……のか……?」

「ううん、だいぶ痛みは引けてきたし、これぐらい……!」


 キャサリンは片足を床につけて立ち上がって見せようとしたが、力を入れた瞬間に足から脳天まで激痛が走り、たちまちその場に倒れ込んでしまった。


「いたたたたっ……!」

「無理はするな、キャサリン……それより、私を中に入れてくれないか……?」

「……え? そのまま窓から中に入れるんじゃないの?」

「……不便ですまぬが、吸血鬼は、招かれなければ他人の家に入ることができないのだ」


 開いた窓の外で、乾いた羽音を立てながらキャサリンの言葉を待つコウモリの群れ。その姿が何だか滑稽に思えて、キャサリンは思わず小さく吹き出した。


「……何がおかしい……」

「……ふふっ。なんか、やっぱり吸血鬼なんだって思って。ごめんなさい。さあ、おいで、ジョセフ」


 キャサリンがそう言って両手を広げると、小さなコウモリの群れは窓から一斉に部屋の中へ飛び込んで、人の形に戻ってゆく。

 この瞬間をどれだけ待ち侘びたことか。約一月ぶりに会うジョセフ、その美しい顔を、キャサリンは早く愛でたかった。


 だが、人の、いや吸血鬼の姿に戻ったジョセフを見て、キャサリンは驚愕した。


「ジ……ジョセフ、どうしたの!? その体……」


 ジョセフの体は、キャサリンが一月前に会った時よりさらにげっそりと痩せ細り、まるで枯れ木のように干からびていたのである。もはや体を起こす力すら残っていないのか、床に体を横たえたまま微動だにしない。

 キャサリンは赤子のように四つん這いになってジョセフの側へ進むと、床に座り、彼の体を抱き起こして膝に乗せた。キャサリンより長身のジョセフの体は、怪我人のキャサリンにも片手で持ち上げられそうなほどに軽かった。


「ジョセフ! どうしてこんな……」

「キ……キャサ……リン……」

「無理に喋らないで! 今、誰か人を……」


 人を呼ぶから、と言いかけて、それが不可能であることに気付く。この状態でジョセフの姿を誰かに見られてしまったら、彼は捕えられ、教会から遣わされた司祭に退魔されてしまうだろう。そもそも、医者に診せるわけにもいかないのだし、人を呼んだところでどうにもならないのだ。

 ジョセフは節くれだった指でキャサリンの腕を掴み、小さく首を横に振った。キャサリンの顔を見上げるジョセフの瞳に力はなく、かつて禍々しい輝きを放ったルビーのような双眸も、今やレーズンのように色褪せて昏く淀んでいる。彼が極めて危険な状態にあることは明らかだった。

 渇いた唇を震わせながら、ジョセフは言った。


「キャサリン……君は、私が血を吸わない理由を知りたがっていたね……」

「……ええ、どうしてなの? こんなになるまで苦しんで……」


 何度も機会があったにもかかわらず、一度もキャサリンの血を吸おうとしなかったジョセフ。キャサリンは、それがジョセフの優しさによるものではないか、と漠然と思いつつも、どこか腑に落ちないものを感じていた。


「私は……私は、死にたかったのだ。三百年前、シャーロットを失ったときからずっと……」

「……!」


 シャーロット。

 心臓に錐を刺されたような痛みが走る。ジョセフの心の中にはやはり、キャサリンの遠い祖先、シャーロットへの想いが強く残っていたのだ。わかっていたこととはいえ、ジョセフの口から直接告げられると、その衝撃は大きかった。ただ、それよりも――。

 死者が吸血鬼などの不死となって蘇るのは、生前に何か強く思い残したことがあるからだと言われている。父からジョセフとシャーロットの話を聞かされて以来、彼が吸血鬼として蘇ったのは、シャーロットと添い遂げられなかったことに対する未練や、彼を蔑ろにしたセシル家への恨みがあったからだとキャサリンは考えていた。つまり、セシル家への復讐が、彼が吸血鬼になった目的なのではないか。だが、それでは彼が頑なに血を吸わなかったこととの整合性がつかない。

 しかし、ジョセフが自ら死を望んでいたのだとすれば、理由は明白だ。吸血鬼の魔力の源となる血を全く摂取しないことで、彼は今度こそ永遠の眠りに就こうとしていたのだ。

 ただ、そうなると、また新たな疑問が浮上する。それは言うまでもなく、死を望んでいたはずの彼が、何故吸血鬼として蘇ったのか――。

 ジョセフは続ける。


「今から三百年前、私はセシル家の令嬢シャーロットを深く愛していた。彼女と婚約するためなら、私は、あのオークの森をセシル伯に与えてもいいとすら思っていたのだ……。だが、セシル伯の野望はもっと遠大で、さらに大きな権力を求めていた。シャーロットが公爵家に嫁ぎ、セシル家の繁栄に大きく寄与したことは、キャサリン、君も知っていよう」

「ええ……ジョセフ、実は、あなたとシャーロットのことも、父上から聞いていたわ」

「何だ、知っていたのか……。シャーロットの婚約を知った私は、馬を飛ばしてオークの森を一直線に駆け抜けた。一目シャーロットに会いたい、その一心で――あわよくば、そのまま彼女を連れ去りたいとすら思っていた。しかしそれは叶わなかった。それ以後、私はシャーロットと言葉を交わすどころか、会うことすらできぬままに死んだのだ」

「そんな……ひどい。別れの挨拶さえさせてもらえないなんて……」

「シャーロットのいない世界で生きていても無意味だ。私は死を望み、ほどなくして、私に死が齎された。私はそれを受け入れた――少なくとも、そのつもりだった。だから、何故自分が吸血鬼として蘇ったのか、この三百年ずっと疑問に思っていた。だが、二度目の死を目の前にして、ようやく気が付いたのだ。私は愛する女性に別れを告げてから死にたかった。それが心残りだったのだと」

「死……死にたかった……?」


 キャサリンの腕の中で、ジョセフの体はまた軽くなったように思えた。


「キャサリン――もしかしたら、君も気付いていたかもしれないが……私は君にシャーロットの面影を重ねていた。君の姿は信じられないほどシャーロットによく似ている。ブロンドの髪、翡翠色の瞳、上品な顔立ちまで、全てがシャーロットと瓜二つだ。だから、君が初めて私の屋敷にやってきたとき、私は動揺を隠すのに必死だった。二度目の死を目前にして、私と君を巡り合わせた神を呪いさえした……」


 ジョセフは骨ばった手をようやく持ち上げ、キャサリンの頬に触れる。その乾いた指先を、キャサリンの瞳から溢れだした一筋の涙が潤した。


「だが、似ているのは外見だけだった。知れば知るほど、君はシャーロットと似ていない。シャーロットは君みたいにお転婆でもワガママでもなかったし、弓なんて持ったことすらなかったはずだ。にも関わらず、私の心は少しずつ君に惹かれていった。もし三百年前のお淑やかなシャーロットが、今そのまま生まれ変わったとしても、再び私と恋に落ちることはなかったかもしれない。君にシャーロットを重ねているつもりで、私は――キャサリン、君自身に心を奪われていたのだ。そのことに、私はようやく気付いた。そして、今度こそ悔いを残さぬよう、君に別れを告げに来たのだ」


 別れを告げに来た。

 その言葉の意味するところを察したキャサリンは、滂沱の涙を零しながらも、声を荒げて怒りだした。


「別れ――ですって……? ふざけたこと言わないでよ! 吸血鬼のくせに、どうしてそんな情けないこと言うの? 三百年前のことを後悔してるんだったら、私を無理矢理連れ去ってでも自分のものにすればいいでしょう? 私を愛しているなら、私が死ぬまで一緒にいなさいよ!」


 今までずっとジョセフのために獲物の血を飲ませてきたのに、父に謹慎を言いつけられ足を痛めてまで彼に会いに行こうとしたのに、どういうつもりなんだこいつは――と、キャサリンははらわたが煮えくり返るような怒りを覚えたのである。

 すると、キャサリンのあまりの剣幕に驚いたジョセフの瞼が、ほんの少しだけ見開かれた。キャサリンは尚も続ける。


「ジョセフ、貴方は最後に想いを果たせて満足かもしれないけどね、残された私はどうなるの? 貴方の自己満足を押し付けられて、大人しく見送れって? 冗談じゃない! ちょっとは私の気持ちも考えなさいよ! 私は……私だって、貴方のことをこんなに愛してるのに……」

「キャサ……リン……」

「まったく……この私に、なんてことを言わせるのよ……。とにかく、このまま死ぬなんて絶対に許さないから!」


 怒気を孕んだ言葉とは裏腹に、ジョセフの萎びた頬に滴り落ちるキャサリンの涙はとても温かかった。

 もう、この世に思い残すことは何もない――キャサリンの愛に包まれて、ジョセフの意識は少しずつ遠のいてゆく。オークの森を飛び越え、最後の力を振り絞って窓に体をぶつけ続けたジョセフの魔力は、この時ついに、完全に尽きようとしていた。キャサリンの腕の中で、体が雲のように軽くなる感覚に身を委ねながら、ジョセフは目を細める。


「ありがとう、キャサリン――私を愛してくれて。そして、私に愛させてくれて」


 その言葉を最後に、ジョセフの意識は途絶えた。





「――ジョセフ……? ジョセフ! ねえ、ちょっと!」


 声をかけ、体を揺すっても、ジョセフはもう何の反応も示さない。その体は微かに不思議な光を放ち、今まさに、彼の魂は天に召されようとしていた――が、


「ダメ……ダメよジョセフ、許さないって言ったでしょ、この大馬鹿! ――もう、こうなったら……!」


 と、眦を決したキャサリン。彼女は、動かなくなったジョセフを無理矢理抱き起すと、その渇ききった口を無理矢理こじ開け、痩せた体を包み込むように抱き締めながら、ジョセフの長い牙を自らの首筋に突き立てさせたのである。

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