第9話



 今夜も来ないのか――。


 セシル邸の敷地のはずれにある繁みで、ジョセフはコウモリの姿のまま、もうすぐ白み始めるであろう空を眺めた。キャサリンが待ち合わせ場所に来なくなって早くも三日目。これ以上待っていたら、旧ドラモンド邸に戻るまでに日が昇ってしまうだろう。ジョセフは羽音を立てながらセシル邸の繁みから飛び立った。


 兆候が全くなかったわけではない。待ち合わせ場所へやってくるキャサリンに、ここ最近何者かの視線が注がれていることはわかっていた。ジョセフは吸血鬼特有の鋭い五感で、キャサリン以外の人間の気配を感じ取っていたのである。

 キャサリンにそれとなく注意を促してみても、彼女は自信満々で『誰にも見られていない』の一点張りだったが、やはり悪い予感は的中していたのであろう。屋敷の人間に夜中の密会を知られ、身動きが取れなくなっているということは容易に想像ができた。

 それだけならばまだよいが、心配なのは、キャサリン自身に何らかのアクシデント――例えば、重い病に罹ったとか――が起こっている場合である。少し様子探ってみるべきかもしれない、とジョセフは考えた。



 そして次の晴れの夜。

 いつもと同じようにセシル邸のはずれの繁みへ辿り着き、キャサリンの姿がそこにないことを確認したジョセフは、コウモリの姿のまま、なるべく羽音を立てないよう注意しながら屋敷に忍び寄った。

 セシル家の屋敷に来るのは約三百年ぶり。ジョセフの生前、ドラモンド家とセシル家の関係が良好だった頃に何度か招かれたことはあるが、少なくとも吸血鬼になってからはこれが初めてである。当時のセシル邸は、貴族の邸宅としては規模も小さく、内装も質素な古典的カントリーハウスの趣を残していた。しかし、最近新たに建てられたセシル邸は、規模の面でも三百年前のセシル邸の二倍、いや三倍以上の威容を誇り、建築様式も華麗にして荘厳、ルネサンス様式の特徴である線対称の佇まいに変わっている。


 初代セシル伯の武人らしくいかめしい容貌と無骨な立ち振る舞いを思い起こしながら、変われば変わるものだ、とジョセフは思った。あれから王族や有力な貴族との婚姻を積極的に進め、代を重ねた現在のセシル候は、決して優れた武人ではないが、博識で芸術にも造詣が深い好人物であるという。まるで昔のドラモンド家のようではないか。

 三百年という時間の長さを、ジョセフは改めて思い知らされる。ジョセフがあの朽ちぬ館でじっと飢えに耐え続けている間に、王は変わり、時代は移ろい、人々もまた時代に合わせて変化している。それは避けることのできない世の理、今更噛みしめるまでもなく、とうの昔に達観したことのはずだった。キャサリンとの出会いによって、ようやく忘れかけていた三百年前の記憶が色を持ち、鮮やかに蘇ることさえなければ――。


 屋敷の周囲を飛び回って様子を探るうち、整然と並ぶ窓の中に、一か所だけ真新しい鉄格子の嵌められた妙な窓があることに気付いた。

 下から二段目の列、つまりファーストフロアの窓である。外観を大きく損ねているため、元々あったものとは考えにくい。居館の中に牢を設けるという話も聞いたことがないし、仮にそうした役割のものが必要になったとしても、地下室を使うのが普通ではないだろうか。ファーストフロアは屋敷の主人や家族の居室が多く割り当てられるはず。やはりあの窓は不自然だ。

 ジョセフは羽音を忍ばせながらその鉄格子の窓に近付き、中を覗き込んだ。


 四方の壁や床の絨毯にあしらわれたアラベスク模様と、その壁にかけられた宗教画、天井から吊り下げられたシャンデリア。アカンサス装飾が施されたチェストの上の白い花瓶には、真紅の薔薇が溢れんばかりに生けられている。いずれも往時のドラモンド家を遥かに凌ぐ、華美を極める調度品の数々。

 その部屋の一角、天蓋付きのベッドの上に、シュミーズ姿の美しい娘が体を横たえ眠っている。


 それは紛れもなくキャサリンであった。


 窓に取り付けられた真新しい鉄格子と、待ち合わせ場所に姿を見せなくなったキャサリン。何が起こったのかは明白だった。

 ジョセフとの真夜中の密会が、セシル候に知られてしまったのだ。


 嫁入り前の娘が夜な夜な屋敷を抜け出している。セシル候からしてみれば当然看過できない事態である。また、キャサリンの気性を考えれば、彼女がセシル候に従わなかったことも想像に難くない。旧ドラモンド邸にセシル家の者が誰も来ていない事実から察するに、キャサリンは密会の相手がジョセフであることを伏せている。相手や行き先については黙秘を貫いており、おそらくその結果として、キャサリンは監禁状態に置かれているのだ。そして、まさか侯爵令嬢を地下室に閉じ込めるわけにもいかないから、わざわざこの部屋にだけ新しく鉄格子を設えた。この豪奢な内装を見るに、ここはきっとキャサリンの居室だと思われる。


 静かに眠るキャサリンの寝顔を鉄格子の外から眺めながら、ジョセフの胸には様々な思いが去来した。彼女は自分に会いたがっているだろう。小さなコウモリの姿なら、鉄格子をくぐり抜けることも容易である。この窓を叩き、自分が来ていることに気付けば、キャサリンはきっと喜んでジョセフを迎え入れるはずだ。


 しかし――。

 ジョセフは結局、キャサリンに何の合図も送ることなく、鉄格子の窓辺を離れた。


 これでよかったのだ。私とキャサリンの運命は、本来交わるべきではなかった。

 私は打ち捨てられた館で人知れず朽ち果て、キャサリンはセシル家と釣り合いのとれる名家に嫁いで幸福な一生を終える。キャサリンの美貌なら、男共が放っておくまい。公爵――いや、あるいは王妃の座さえも望めるかもしれない。それを期待すればこそ、セシル候もキャサリンの行動に神経を尖らせるのだろう。

 活発なだけならまだよいが、妙な噂が立ってしまえば、キャサリンの将来に影響を及ぼすことは必定。セシル候は使用人たちにも厳しく緘口令を敷いているはずだ。


 自分の存在がキャサリンの人生に大きな汚点を残すかもしれない。

 ジョセフの心に、後悔と自責の念が重くのしかかる。キャサリンとの関係を断つ機会はいくらでもあったはず。なのに、それを今まで先延ばしにして、考え得る限り最悪の形で別れることになってしまった。全ては、あの若い侯爵令嬢にシャーロットの面影を重ねてしまったジョセフの罪である。

 だが、今更悔やんでもどうしようもない。今のジョセフが彼女にしてやれるのは、もう二度とキャサリンの前に姿を見せないこと。たったそれだけなのだ。


 最期に君に出会えて、私は幸せだった。さらばだ、キャサリン――。

 

 ダイヤモンドを散りばめたような満天の星空へ飛び立ちながら、ジョセフは胸の内でキャサリンに別れを告げた。


 初めて彼女が旧ドラモンド邸を訪れた夜のこと。服も髪もボロボロで、怯えながらジョセフに声をかけたキャサリン。あの時のしおらしさはどこへ消えたのだろう。ジョセフが血を吸ったことのない吸血鬼だと知ると、彼女は途端に緊張を緩め、その場で笑い転げたのである。

 そして、頼みもしないのに獣を狩って来て、無茶苦茶な理屈を述べながら、その血を飲むようジョセフに強いたキャサリン。ジョセフが獣の死骸に牙を立てると彼女は、遠い追憶の彼方に消えた母のように慈愛に満ちた穏やかな表情でジョセフを眺めるのだった。


 こうして思い返してみると、キャサリンはシャーロットと全く似ていない。姿かたちこそ瓜二つだが、性格は正反対。もしも今シャーロットがありのままの姿で蘇ったとしても、三百年前のように恋に落ちることはなかっただろう。ジョセフより父親の命令を選んだシャーロットが吸血鬼に心を奪われるとは到底考えられないし、ジョセフもそんなシャーロットに無理を強いて恋焦がれることはなかったはずだ。


 シャーロットの面影を重ねながらも、ジョセフは目の前にいたキャサリンに恋をしていたのだ。


 生臭すぎて美味いなどとは一度も思わなかった獣の血の味が、妙に懐かしく思い起こされる。

 キャサリンを乗せて毎晩のように往復していた旧ドラモンド邸までの空も、今夜はいやに長く感じられた。人一人分軽くなったはずなのに、まるで鉛の塊を背負っているかのように体が重い。

 もはやセシル家の屋敷に来ることも二度とあるまい。眼下に果てしなく広がる黒い森の眺めを目に焼き付けながら、ジョセフはオークの森の上空を飛び去った。

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