第8話
久方ぶりに霧のような細かい雨が降りしきる肌寒い夜のこと。
キャサリンは、月も星も見えぬ夜空を自室の窓から眺めていた。今日は朝からずっと雨。雨の日は狩りにも出られないし、ジョセフとの密会も中止である。数日ぶりに一人で過ごす夜。ジョセフと出会ってからというもの、一人の夜にはとても感傷的な気分になるキャサリンであった。
しとしとと降る雨の音と肌寒さが寂しさを増幅させる。元々はどちらかといえば一人の時間が好きだったはずなのに、一体どうしたことだろう。本を読んでも、気付けばいつの間にかジョセフのことを考えているし、物語の中のロマンスの主人公を自分と重ね、以前より深く感情移入するようになったような気がする。ジョセフとの出会いによって強くなった自分と弱くなった自分、二人のキャサリンが心の中に共生している。それは、今まで何事に対しても直情的に生きてきたキャサリンにとって、実に驚くべきことだった。
明日は晴れるだろうか。キャサリンは窓の外を眺めながらぼんやりと考えた。
一人の時間がこんなに退屈に感じられるとは。
と、ここでキャサリンは、父であるセシル候から、一人で書斎に来るように言われていたことを思い出した。わざわざ呼び出すなんて何の用だろう――いや、まあ、お父様の話なんて、どうせまたお小言に決まっている。面倒ではあるが、せめて話ぐらいは聞いておかないと、後々さらに面倒なことになるのだ。やれやれ、とため息をつきながら、キャサリンは部屋を出た。
父の書斎はキャサリンの部屋より一回り、いや二回りは広いはずだが、四方の壁を埋め尽くす書架の圧迫感のせいで、随分狭く感じられる。
書物の数がステータスシンボルとなってから、装丁だけは豪華だが実際には読みもしない本を書架に詰め込む貴族が増え、それが長じて、屋敷の中に書物専用の部屋を設けることが一般的になった。旧ドラモンド邸に書斎がないのは、時代と流行の違いによるものである。
しかし、主に装飾品として書物を蒐集している他の貴族たちとは異なり、キャサリンの父セシル候は知識欲が旺盛であった。最新の学術書から稀覯本、古文書に至るまで、ありとあらゆる分野の本を集め、日々碩学に磨きをかけているのだ。
キャサリンが書斎に入ると、正面に机に向かい書物に視線を落とすセシル候の姿が見えた。
「お父様――」
セシル候は書物から顔を上げ、重々しい表情でキャサリンを見据える。おや、とキャサリンは怪訝に思った。いつもならば、キャサリンの顔を見るなりガミガミと小言が始まるからだ。
「キャサリンか。よく来たね。随分冷えるな、今夜は」
表情に全くそぐわない穏やかな口調に、キャサリンはさらに違和感を覚えた。
「お父様、どうしたの? 私に話って、何かしら」
すると、セシル候は徐に椅子から立ち上がり、真っ暗な窓の外を眺め始めた。
何だろう、こんなにもったいぶって。いや、何か慎重に言葉を選んででもいるような――。
キャサリンがその場に直立したまま待っていると、セシル候はキャサリンに背を向けたまま言った。
「キャサリン、単刀直入に聞こう。お前は毎晩どこに行っているのだ?」
「――!」
まさか、誰かに見られていた?
キャサリンの心身は一瞬にして凍り付いた。細心の注意を払って屋敷を出ていたはずなのに。黙り込むキャサリンに、父は続ける。
「皆が寝静まったのを見計らって、お前がどこかに出かけていくのを見た者がいるのだ。それも一度や二度ではない。雨の降らない夜には毎晩のように、お前は屋敷を出て、外の繁みに姿を消す。そして、繁みの中まで追いかけていくと、お前の姿はどこにもない。馬や馬車を待たせていたような気配はないにもかかわらず、だ。しかも、その時には決まって、不吉なコウモリの大群が羽音を響かせているという」
「そ、そんな――何かの間違いだわ。その人、夢でも見たんじゃないの?」
「私もそう思いたかったよ、キャサリン。しかしね、君の姿を見たのは一人や二人ではない。使用人の大半が、屋敷を抜け出して繁みへ向かうキャサリンの姿を目撃している。しばらくすると君はまた繁みから屋敷へと戻ってくるが、その際には必ずまた夥しい数のコウモリの羽音が聞こえるそうだ――キャサリン、真夜中に狩りに出ているわけでもあるまい。このことを知っているのは、今はまだ私と家中の者だけだが、口に戸は建てられぬ。噂が広まれば、お前が魔女なのではないか、などと妙な疑いをかける向きも出て来よう。キャサリン、私はお前の言葉を全面的に信じる。だから、どこに行って、誰と会っているのか、私には正直に話してくれないか」
そう言って振り返った父の眼光の鋭さに、キャサリンは思わず身震いした。
セシル候は柔和な人物として広く知られているし、少し小言や説教が多いとはいえ、家庭でもそれは変わらない。狩りに熱中することも、ドレスを何度も汚すことも、口では窘めつつ、最終的には苦笑い一つで許してくれる。その優しい父がここまで厳しい態度を見せるのは初めてのことだった。
でも……。
ジョセフのことを話すわけにはいかない。もし自分が夜な夜な吸血鬼と会っており、しかもその相手が大昔に因縁のあったドラモンド家の最後の伯爵だ、と真実を述べたら、お父様は必ずジョセフを退魔しようとするだろう。それだけは絶対に避けなくてはならなかった。
しかし、ここで咄嗟に父を騙しおおせるような都合のいい嘘を思い付くほど、キャサリンは器用でも強かでもない。答えあぐねて口を噤むキャサリンに、セシル候は眉を吊り上げ、一層厳しい視線を突き刺す。父の目を直視できなくなったキャサリンは、慌てて父から目を逸らした。
「言えないというのか――この私にも」
「……ごめんなさい、お父様」
「では、止むを得まい。キャサリン、しばらくの間、お前に謹慎を命ずる。私が良いと言うまで、部屋から一歩も外に出てはならぬ」
セシル候がそう言うと、どこに控えていたのか、男の使用人が二人、廊下から書斎に入ってきた。セシル候は二人に素早く目配せする。
「キャサリンをこのまま部屋に連れていけ。そして、何があっても外に出してはならん。済まぬが、お前達には、キャサリンが外に出られぬよう、部屋の前で見張っていてもらいたい。部屋の外の鍵と窓の鉄格子も、明日には取りつけさせよう」
連れていけ、と命じられた二人の使用人は、困惑気味に顔を見合わせ、どうしたものかと迷っている様子だ。
「……いいわ。自分で歩きます」
キャサリンは目を伏せたまま身を翻し、しずしずと書斎を後にした。
セシル侯の指示を守りキャサリンの寝室の前までついてきた忠実な二人の使用人は、キャサリンが寝室のドアノブに手をかけると、気の毒そうに言った。
「申し訳ございません、お嬢様……旦那様の御指図には逆らえませんで」
「今すぐエマも連れて参りますので、御用がありましたら何なりとお申し付けください」
エマとはキャサリンが産まれた頃からセシル家に仕えている女の使用人のことである。また、今ここにいる二人も、キャサリンが子供の頃からセシル家で働いている者達だ。昔から何かと叱られることの多かったキャサリンだが、部屋に閉じ込められる――つまり実質上の監禁状態に置かれるのはこれが初めて。それだけに、彼らはキャサリン自身以上に驚いているのだろう。
「あなたたちが謝る理由はどこにもないわ。じゃあね」
キャサリンは二人に背を向けたまま素っ気なく言うと、そそくさと部屋に入り、静かに扉を閉めた。
そして、一人になった瞬間、抑えきれなくなった一筋の涙が頬を伝う。
ついに真夜中の密会がお父様にバレてしまった。誰にも気付かれないよう、細心の注意を払っていたはずなのに。いや、そんなことより。
しばらく――いや、もしかしたら、もう二度とジョセフとは会えないかもしれない。
キャサリンが最も恐れているのはそれだった。キャサリンにとって、ジョセフは既にかけがえのない存在となっていたし、彼のいない生活など考えたくもない。彼との関係が許されない恋であったとしても、もうその気持ちを抑えることができないほどに、キャサリンはジョセフを深く愛してしまっていた。
廊下には見張りがついているから、扉から外に出ることは不可能。唯一残された出口は窓であるが、お父様は明日にも窓に鉄格子を取り付けると言っていた。つまり、今夜のうちに外に出られなければ、その機会は二度とやってこないかもしれないのだ。
迷っている暇はない。
窓辺に立つと、窓ガラスを叩く雨の音がひたひたと聞こえてくる。キャサリンは躊躇わずに窓を開け、窓の下を覗き込んだ。キャサリンの寝室はファーストフロア。地面まで距離はあるが、決して飛び降りられない高さではないはずだ。いつも登っているオークの木より、ほんの少し高いだけ。それに、この雨で地面が泥濘み柔らかくなっていれば、着地の衝撃もだいぶ和らげられるはず。
キャサリンはドレスのスカートを手早くたくし上げると、右足を上げて窓を跨ぎ、それから左足も外に出して、桟に腰掛けるような格好になった。やはりオークの枝より少し――いや、だいぶ高い。でも、キャサリン・セシルは、ここまで来て怖気づくような臆病な女ではない。キャサリンは自らを鼓舞し、大きく深呼吸して心を落ち着かせてから、勢いよく眼下の暗い地面へと飛び降りた。
オークの木から飛び降りる時のように、両足から。
着地するまでのほんの数秒の時間が、とてつもなく長く感じられた。
地面は見込み通りに雨で泥濘んでおり、キャサリンの両足にかかる負担をだいぶ和らげてくれた――のだが。
「うっっ……!」
それでも、キャサリンの華奢な足と足首は、着地の衝撃に耐えることができなかった。上手く着地できたと思ったその刹那、足首に今まで感じたことのないような激痛が走る。キャサリンは苦悶で顔を歪めながら、その場に倒れ込んだ。
ドレスは泥に塗れ、雨と泥が瞬く間に体温を奪ってゆくが、足首から先だけは燃えるように熱く感じられる。それでもキャサリンはどうにか立ち上がろうと試みたが、足首は動かすことすらできなかった。今にも意識が飛びそうなほどの激しい痛みが足首から脳へと駆け上がり、しかし、その激痛の中でも、キャサリンの脳裏をよぎったのは、ジョセフがごく稀にしか見せない優しい微笑だった。
「ジョセフ……こん……な……ところで……!」
キャサリンは這ってでもその場を離れようとしたが、その視界の隅に、落下の際の音を聞きつけて様子を見に来た女の使用人の姿が映り込む。
「何かしら、今の……はっ……も、もし……キャサリンお嬢様!? 誰か、誰か! キャサリンお嬢様が――」
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