第5話

 棺の中で目を閉じ横たわるジョセフの美しい寝顔を、キャサリンはしばし陶然と見つめていた。

 窶れながらも尚、気品の漂う顔立ち。キャサリンの肌よりさらに白く、陽に当てれば向こうが透けて見えてしまいそうな、アラバスターの如き血の通わぬ白い肌。赤い瞳の禍々しい輝きは瞼の下に眠り、ジョセフの寝姿は静かに時を重ねる彫像のようであった。

 いや、このどこか退廃的な美しさは、現代のどんな名工の手になる彫刻でも表現することは不可能だ、とキャサリンには断言できる。もはや悪趣味の域に達するほど華美を極めたセシル家の屋敷に、この姿のままの彼を持ち込み眺めることができたら、どれほど心が安らぐだろう――。


 と、甘美な幻想から覚め、ふと我に返ったキャサリンは、蓋を開けてもなお目を覚まさないジョセフに、囁くような声で呼びかけた。


「ジョセフ――ジョセフ?」


 だが案の定、ジョセフは眉一つ動かさなかった。吸血鬼は夜にならなければ目覚めないという伝承、あれは本当だったんだ、とキャサリンは一人納得しながら、窓の外へと目を転じる。

 予想以上にあっさりと館に着いてしまったため、日はまだ高く、夜まではかなり時間がある。それまでじっとジョセフの寝顔を眺めていられるほど、キャサリンは気の長い性格ではない。棺の蓋をそっと閉じて、キャサリンは屋敷内の探索を始めた。


 格調高いゴシック建築の旧ドラモンド邸は想像に違わぬ広さがあり、またいずれの部屋にもアンティークな調度品が、当時のままの姿で残っていた。屋敷自体にも言えることだが、三百年前に使われていた物が、これほどまでに良好な状態を保っているなんて、通常では有り得ない。やはりこれもジョセフの魔力によるものなのだろうか、とキャサリンは思った。

 現代とは建築様式の異なる旧ドラモンド邸は、それぞれの部屋の役割がまだセシル家の屋敷ほど明確に分化しておらず、部屋の構成や間取りに時代が感じられる。大量の書物を保管しておく場所、つまり書斎もこの屋敷には存在しない。書物がステータスとなり、ファッションの一環として書物が集められるようになったのは割と最近のことなのだ。

 使用人の寝室にもグラウンドフロアの大きなスペースが割かれており、かつては大勢の使用人がこの屋敷で暮らしていたことが窺えた。

 セシル家の屋敷では地下室に使用人の居住スペースがあり、使用人たちは普段そこで寝泊まりしている。現代の貴族の屋敷ではそれが一般的な様式であるが、ドラモンド家の時代は、使用人もホールで寝泊まりするのが普通だったはず。使用人専用の部屋が、しかもグラウンドフロアにあるなんて、当時としてはかなり珍しいのではないだろうか。そんなところからも、使用人を大切に扱うドラモンド家の家風や人柄が垣間見える。


 屋敷内を探索するうちキャサリンは、甲冑や弓矢、剣などの武器が収められている部屋を見つけた。

 数は決して多くないが、いずれも手入れは行き届いていて、刃こぼれや錆の一つもなく鈍い光を放っている。実用には全く問題なさそうだ。

 キャサリンはあることを思い付き、弓矢と短剣を手に取った。



!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i



 旧ドラモンド邸から程近い、仄暗いオークの森。頭上を厚い木の葉に覆われた森は、まだ昼間だというのに僅かな日光しか差し込まず、森全体が眠っているかのような静けさに満たされていた。

 そして、静寂の眠りの森で、灌木の間を縫うように駆けてゆく一匹の野兎。カサカサと落ち葉の擦れる音が森を一直線に横切り、その直後、さらに一回り大きな黄土色の塊が追いかけてゆく。フォックス――つまり野狐である。


 熊や狼といった大型の肉食獣が絶滅したこの国において、フォックスは森や草原の王者と呼べる存在になっている。熊や狼ほど毛皮の需要がなく、猪ほど獰猛でなく、鹿のように立派な角を持つわけでもないフォックスは、これまで積極的に狩られる対象ではなかった。フォックスが王者たりえたのは、フォックスにとって天敵と成り得る動物を人間が狩り尽くしてしまったからである。

 だが、熊や狼、猪が絶滅した後、長らく狩猟のメインターゲットとなってきた鹿も、近年徐々にその数を減らしつつある。鹿狩りができなくなったら、次は狐か――狩猟好きの貴族たちは密かにそう囁き合っていた。あまり殺し甲斐のある動物ではないが、数も多いし、家畜を襲う。狩るには持って来いの動物である。

 代々狩猟好きな当主が続いたセシル家の領地であるこのオークの森では、その鹿すらもとうの昔に姿を消し、狩りといえば鳥かフォックス、時に野兎と対象は限られていて、図らずも流行を先取りした形となっている。狼に似た繁殖力と走力、敏捷性を持つフォックスは、これまで絶滅してきた獣たちよりも長く、狩猟好きの貴族たちを楽しませることだろう。


 しかし、そんなことは露知らず。天敵が消えた森で我が世の春を謳歌するフォックスは、自らの種の繁栄のため、そして食欲を満たすために、狩りに勤しんでいた。

 野兎はまさに脱兎の如く全速力で逃げ回るが、野狐の脚力には到底敵わない。間もなく野兎に追いついたフォックスは、その鋭い牙を野兎の首に突き立てる。必死にもがきながら最後の抵抗を試みる野兎だったが、さらに深く食い込むフォックスの牙には抗いようもなく、程なくして絶命した。

 だが、その刹那――。


 獲物を捕らえて安堵したフォックスの一瞬の隙をついて、フォックスの頭上から一筋の矢が放たれた。矢は正確にフォックスの首を貫き、フォックスは捕えた野兎を取り落としてその場に頽れる。

 フォックスが倒れたのを確認し、オークの木の太い枝から軽やかに舞い降りる人影。ドレスから動きやすいパンツスタイルに着替えたキャサリンだった。ドレスでは狩りの際に邪魔になるため、旧ドラモンド邸の使用人部屋から手頃なものを勝手に拝借したのである。華奢な彼女にはだいぶサイズが大きかったが、それでもドレスよりは遥かに動きやすい。ちなみに、上は簡素なシャツ一枚で、その手には短弓を携えている。長い髪は後ろで束ね、良く整えられた襟足とシャープな輪郭が露わになっていた。

 オークの木によじ登り、太い枝に腰掛けて、頭上からフォックスの狩りの一部始終を見ていたキャサリン。野兎を捕えて動きを止めたフォックス、その一瞬の隙を突いて放たれた矢は、吸い込まれるように一直線にフォックスの首を射貫いたのだ。

 キャサリンがフォックスの元へ駆け寄ると、フォックスはまだ僅かに息があった。


「ごめんね。今、楽にしてあげるわ」


 懐から徐にナイフを取り出したキャサリンは、フォックスの喉を裂き、フォックスを苦しみから解き放った。


 貴族の趣味としての狩猟は、猟犬や鷹を使ったものが一般的である。しかし、キャサリンは独力で獲物を仕留め、止めを刺すことに拘りを持っていた。とはいっても、別に動物を殺して快楽を覚えるわけではない。犬や鷹をけしかけ、楽をして獲物を得るという行為が、キャサリンの美学に反するからである。だから、キャサリンにとって狩りの師は父ではなく専業の猟師だったし、獲物の処理なども自分で行う。そして、獲物は必ず自分で食べるのがキャサリンのポリシーでもあった。

 切り裂かれたフォックスの喉から流れ出す血を見て、キャサリンは思わず舌打ちした。ついいつもの癖で喉を裂いて血抜きをしてしまったが、今回の目的はフォックスの肉ではなく、その血である。できればなるべく血液を損なうことなく運びたかったのに――まあ、もう裂いてしまったものはしかたない。


 キャサリンは、フォックスと野兎の死骸を手早く皮袋に放り込んで旧ドラモンド邸へ戻った。既に日は翳り始めている。日が落ちる前に獲物を仕留められてよかった、とキャサリンは思った。



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