第6話
そして、その日の夕方。逢魔が時を迎えた空は赤く染まり、旧ドラモンド邸の周囲の森は、瑞々しい緑から深い漆黒へと装いを改める。
光の差さなくなった旧ドラモンド邸。その応接室に横たえられた黒い棺の蓋が内側から持ち上げられ、中から蒼白の吸血鬼、ジョセフ・ドラモンドがゆっくりと体を起こした。頭を抱え、ため息をつくジョセフ。このまま目覚めることなく、永遠の眠りについてしまいたかったのに、と、目覚める度にジョセフの心は重くなる――のだが。
「おはよう、ジョセフ」
シャーロット――?
小鳥の囀りのように軽やかな音色で自分の名を呼ぶその声に、ジョセフは耳を疑った。これは紛れもなく愛しいシャーロットの声。
そう、私は長い長い悪夢を見ていたのだ。目を覚ますと、傍らにはきっと、愛しいシャーロットが――。
淡い期待を抱きながらジョセフが瞼を開くと、そこには、いつもと変わらぬ微笑を浮かべるシャーロットがいたのである。
「シャーロット……!」
ジョセフはまろぶように棺から飛び出し、シャーロットの身体を強く抱き締める。この細く柔らかい肌。遠く懐かしいシャーロットの感触がジョセフの脳裏に蘇った。
「ちょっと、ジョセフ――!」
勢い余ってシャーロットを押し倒すジョセフ。
もう後悔はしたくない。シャーロットは私のものだ!
狂おしく恋焦がれたシャーロットの唇を貪ろうと顔を寄せ――。
しかし、明らかにシャーロットのものとは違う獣の血の臭いを嗅ぎ取ったジョセフは、はっと我に返った。
「ジョセフ――?」
困惑した表情を浮かべるシャーロット。ジョセフは自らの痩せこけた頬に触れた。唇をなぞると、明らかに人間のものではない鋭く伸びた牙の感触がたしかにある。
夢ではなかった。私は不死になってなお死にかけの吸血鬼。
すると、この娘は――。
「――キャサリン……なのか?」
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
心臓がバクバクと早鐘を打っている。
起きざまに突然自分を押し倒したかと思えば、今度は落胆した表情を浮かべるジョセフ。キャサリンを映すルビーのように赤い瞳は、何故か深い悲しみの色を湛えている。ジョセフは言った。
「――キャサリン……なのか?」
キャサリンは震えながら頷いた。彼が怖いわけではない。相手が吸血鬼とはいえ、悲しそうなジョセフの表情から、まったく恐怖は感じられなかった。それなのに、何故こんなに体の震えが止まらないのだろう。キャサリンにとって、男に押し倒されるのはこれが初めてだった。
そして、彼が口走った名前――シャーロット。それは、父から聞かされた話の中に登場する、セシル家の遠い祖先。公爵に嫁ぎ、初代セシル伯と共にセシル家の名声の礎を築いた人物の名前だ。
ジョセフは慌ててキャサリンの上から飛び退くと、気まずそうに辺りをうろうろ歩き回り、ややぎこちない仕草で長椅子に腰掛ける。
「キャサリン、何故ここにいる。また性懲りもなく道に迷ったのか?」
キャサリンはゆっくりと体を起こした。胸の鼓動はまだ完全には収まりきっていなかったが、それを悟られないよう、声の震えを抑えながら、努めて明るい口調で答える。
「い、いいえ。今日は自分の意志でここに来たの」
「何故?」
「あなたに会いたかったから」
見つめ合う二人の間に短い沈黙が流れ、ジョセフは当惑気味に、全く同じ質問を重ねた。
「……何故?」
「会いたいと思うことに理由が必要なの?」
「あの森を抜けてはるばるここまで歩いてくることには理由が必要だろう」
「だ~か~ら、それはあなたに会いたかったからだって言ってるじゃない。私の話、聞いてる?」
絶妙に噛み合わない会話に、ジョセフは諦めて話題をずらす。
「……しかし、君はセシル家の侯爵令嬢だろう? 一人でこんなところにやってきて……」
「侯爵令嬢といったってね、会いたい人に会えないほど不自由な身分じゃないわ。それより、いきなりレディを押し倒したことに対する謝罪はないわけ?」
「……そ、それは……すまなかった」
勝ち誇ったような笑みを浮かべながら肩を竦めるキャサリンに、ジョセフはすっかり気圧されていた。と、ここでキャサリンの服装の変化に気付いたジョセフが尋ねる。
「キャサリン、その服でここまで来たのか?」
「――ああ、これ? いいえ、さっきこの屋敷の部屋から借りたの。どうせ誰も着ないみたいだから、いいかなと思って」
「まあ、それは構わないが――それにしても、女物の服もあっただろう。何故そんなみすぼらしい服を?」
「だって、この方が動きやすいんだもの――そうそう」
キャサリンはそう言うと、足元に転がっていた皮袋を手繰り寄せ、中からフォックスと野兎の死体を取り出して見せた。
「これ、私の獲物。さっき捕まえたばかりだから、きっと血も新鮮なはずよ」
そう、キャサリンがここで狩りを行ったのは、新鮮な血液をジョセフに飲ませるためであった。昨夜にしろ今にしろ、あれだけ機会があったのに血を吸おうとしないということは、ジョセフはおそらく自分の、いや人間の血を吸う気はないのだろう。だが、キャサリンがわざわざ捕まえてきた動物の血液ならば飲んでくれるのではないか。既に死んだ動物の血を飲むだけなら、優しい彼の良心も痛むまい。そう考えたのだ。
しかし、期待に反して、ジョセフの反応はつれなかった。
「――キャサリン、何故その獣らの命を奪った?」
「何故って、それは――」
ジョセフは眉根を寄せ、窘めるような口調で言う。
「キャサリン、君は知らないかもしれないが、ドラモンド家がこの地を治めていた頃、このオークの森は、多くの獣達が暮らす豊かな森だったのだ。それがどうだ、セシル家が領主に変わってから、気晴らしの狩りで数え切れないほどの獣が殺された。よく見たまえ、そのフォックスも、腹が大きいではないか」
キャサリンは自分の手元にあるフォックスの死骸をまじまじと見つめた。言われてみれば、確かに普通のフォックスより腹が膨らんでいる。
「君もレディだろう。無意味に動物を殺すのはやめるんだ。狩りなんてレディが入れ込むべきものではない」
「無意味じゃないわ、ジョセフ。貴方に血を飲ませたいと思って――」
「気遣いには感謝するがね、キャサリン。私は――」
「じゃあ、どうしてそんなに痩せ細ってまで血を吸おうとしないのか、その理由を教えてよ。そうでなきゃ、納得できないわ」
「なっ――」
ジョセフについて最も不可解な点。それは当然、吸血鬼でありながら、彼が頑なに血を飲まない理由である。探りを入れるなんてまどろっこしいことはしない。キャサリンはその疑問をジョセフに真っ直ぐぶつける。
今度はジョセフが言い淀む番だった。
「それは――」
「言えないの? 理由がないなら、この血を飲んでくれたっていいじゃない? 貴方のために、私がわざわざ狩ってきたんだから」
「いや、しかし――」
「私はお父様や他の貴族とは違う。無意味に動物を殺したことはないわ。犬も鷹も使わず自分の力で獲物を狩り、狩った獲物は自分で食べる。命を粗末にしたことは一度もない。でも、このフォックスと野兎は、貴方が血を飲まなかったら無意味に死んだことになる。それでも納得できるような理由があるなら、是非教えてもらいたいものだわ」
キャサリンの剣幕に押され、ジョセフは二の句が継げないようだ。
さて、これでどう出るか。キャサリンは注意深くジョセフを見守ったが、ジョセフは緩慢な動作で長椅子から立ち上がると、渋々といった表情でフォックスと野兎の死骸に手を伸ばした。
何だ、飲むんじゃないの――。
自分が狩った獲物に牙を立て、初めて血を飲むジョセフの姿を見て、キャサリンは得も言われぬ恍惚を覚えた――はずだった。
だが、後になってよくよく考えてみると、やはり腑に落ちない。血を飲ませることには成功したが、結局のところ、彼が三百年もの間ずっと血を吸わなかった理由を聞きだすことはできなかったのだ。
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
完全に夜が更けてしまう前に、コウモリの姿に化けたジョセフによって、キャサリンは再びセシル家の屋敷の近く、人目につかない繁みまで送り届けられた。服装はもちろん、元のドレス姿である。キャサリンの汚れたドレス姿を見て、ジョセフは言った。
「昨日今日と、もう二着ものドレスを穴だらけにしてしまって、ご両親に叱られないのか?」
両親はもうキャサリンの気性について半ば諦めているため、ドレスを壊したぐらいでいちいち怒られることはないのだが、キャサリンはそれを伏せて答える。
「だって、森の中を歩かなきゃ貴方の屋敷に行けないんだもの、仕方ないじゃない?」
「私に会いに来なければいい」
「やだ」
たった二文字の否定に、ジョセフは返す言葉も浮かばない様子だ。出会ってまだ二日目のジョセフも、キャサリンの性格については最早諦めの境地に入っているのかもしれない。そんなジョセフを見て、キャサリンの天邪鬼の血が騒いだ。
「そうだ、ドレスの心配をしてくれるんだったら、迎えに来てよ、ここまで」
「なっ……」
「夜、みんなが寝静まった頃、私は一人でここに来るわ。貴方がここに迎えに来て、貴方の屋敷まで運んでくれたら、私はドレスを汚すことなく貴方に会うことができる。これで何の問題もなくなるでしょ」
「バカなことを言うもんじゃない、それじゃあ――」
「迎えに来てくれなかったら、偶然ここを通りかかったどこかのならず者に襲われちゃうかもしれないわね。人目につかない暗闇、美しく可憐な、か弱い侯爵令嬢。あらあらどうなることやら……」
セシル家の屋敷の近くをならず者が通りかかることなんてまず有り得ないし、か弱いなんてどの口が言うのかと自分でも思ったが、ここはジョセフの不安を煽ることができれば十分。そして、その策略は成功した。
「わかった、わかったよ。迎えに来ればいいんだろう? ――まったく、吸血鬼を辻馬車がわりに使うとは、なんて女だ」
「ふふっ、ありがとう、ジョセフ。私もまた何か獲物を用意しておくわ。もっと体力をつけてもらわないと。もう『重かった』なんて言わせませんからね」
昨日の夜、ジョセフがぼそりと漏らした一言を、キャサリンは忘れていなかった。
「なんだ、聞こえてたのか……」
「当然。狩人の耳は地獄耳よ」
キャサリンが小さく舌を出しながら微笑みかけると、ジョセフの青白い頬に仄かに紅が差したような気がした。私が狩って与えた血は、少しでも彼の力になっているだろうか、とキャサリンは思った。
ジョセフは昨夜と同じようにキャサリンに背を向け、痩せた狼に化けて繁みの中へ潜り込んでゆく。
「また明日ね~、ジョセフ!」
キャサリンはそう声をかけながら、ガサガサと音を立てて走り去ってゆくジョセフに大きく手を振った。
星が出始めた空を眺めながら、キャサリンは今日の出来事を思い出す。
キャサリンの両親は、キャサリンが女だてらに狩りを嗜むことを苦々しく思い、時にはやめるようにと説教もしたが、狩りそのものを咎めることはなかった。貴族にとって狩りで得た獲物は名誉であり、奪うこと、そして殺すことは、貴族にとって生まれ持った当然の権利であると疑いもしない。何故殺すのか、なんて聞かれても、それが権利だから、と答えるだけだろう。
だから、何故殺したのか、というジョセフの問いに、キャサリンは心底驚いた。キャサリンが犬や鷹を使わず、殺した獲物を食べる理由は、命を粗末に扱いたくないからだ。ジョセフと自分、ポリシーは違えども、生命に対して抱く畏敬の念には、根底の部分で通ずるものを感じたのだ。
動物に対しても慈悲の心を持つジョセフの優しさを、キャサリンは尊いと思った。しかし、だからこそ、彼にはもっと元気になって欲しかった。
明日もまたジョセフに獲物を届けなければ。
そしていつか、彼が今まで頑なに血を飲まなかった理由を知りたい。
なんなら私の血だってひと噛みぐらい、と思わないでもないのだが、首筋にあの鋭い牙を立てられ、皮膚を貫かれると思うと、まだ少し決心がつかないというか、躊躇してしまうキャサリンであった。
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