第3話

「うっ……」


 狼の姿で闇夜の森を駆け抜け、暗い館に辿り着いたジョセフは、疲れ果てた体をぐったりと長椅子に沈めた。

 コウモリや狼の姿への変化は、本来決して多くの魔力を消費するものではない。それでも、吸血鬼として目覚めて以降一滴も血を吸っていない飢えたジョセフの体には、大きな負担となってのしかかった。この三百年でかつてないほどの疲労と虚脱感。これほどまでに衰えたか、とジョセフは苦笑を浮かべた。

 全てが静止したかのように穏やかな時が流れる深い森、その只中にあるこの屋敷に、来客などほとんどない。せいぜい時折迷い込んでくる浮浪者を脅かして追い払うのに魔力を使うぐらいだが、それすらも最早数十年も前のことだ。しかも、今回はただ化けるだけではなく、人を一人屋敷まで送り届けねばならなかったのだから、消費した魔力はこれまでの比ではない。生き血を啜り充分に魔力を蓄えた吸血鬼ならこの程度で音を上げたりはしないはずだが、ジョセフにとってはその僅かな魔力の消費が重い負担となったのだ。


 それでも――と、ジョセフは久方ぶりの闖入者、キャサリンの顔を思い浮かべた。

 三百年もの長きに亘り、深い森に覆われたこの一帯を治める名家、セシル家の侯爵令嬢。乱れてはいたが美しいブロンドの髪、そして翡翠のように澄んだ、珍しい緑色の瞳。

 キャサリンの容貌は、今から約三百年前、彼がまだ人間だった頃に恋焦がれていたセシル家の令嬢と瓜二つだったのである。




 今から三百年余り前。

 ドラモンド家は、この森一帯を領する由緒ある伯爵家だった。領地を接するセシル伯は、国境の拡張と共に新たに配された軍人上がりの貴族。同じ爵位とはいえ、領地はドラモンド家の方が広く、家格にも天と地ほどの開きがある。故に、ドラモンド家はセシル家を成り上がりの田舎者と内心で見下していた。

 一方のセシル伯にも、多大な戦功を上げて爵位を勝ち取り、領地を手に入れたという自負がある。安定した領内経営以外これといった成果を残していないドラモンド家は、野心溢れるセシル伯にとって眼前に吊るされた野兎も同然だった。


 故に、当初こそ良好な関係を築いていた両家が、次第に反目し合うようになったのは、ある意味必然の出来事だったと言える。

 きっかけは、双方にとって領土の境界線上にある森で、セシル伯が狩りを行ったことだった。

 三百年前から現在に至るまで、狩猟は貴族の最もポピュラーな趣味の一つであると言っていい。軍人出身ということもあり、初代セシル伯は特に狩猟を好んだ。一方、ドラモンド家では、代々続く当主の体質の弱さのせいもあり、狩猟を嗜む習慣がなかった。そのため、領内には、当時では滅多に見られなくなっていた猪や、既に絶滅したと思われていた熊を含む多くの動物が生息していたのである。

 以前から狩場としてのドラモンド領の魅力に目をつけていたセシル伯は、ある日、ついに領土の境界線を越えて、ドラモンド領の森で狩りを行った。ドラモンド伯――つまりジョセフの父はセシル伯に厳しく抗議したが、セシル伯は知らぬ存ぜぬの一点張り。この日を境に、両家の関係は一気に悪化した。

 とはいえ、所領の境界線を巡る諍いは貴族ならどの家でも多かれ少なかれ抱えているものであり、ドラモンド家とセシル家のそれも、当時としてはごくありふれたものに過ぎなかった。


 ただ一つ、両家の公子と公女が、互いに想いを寄せ合っていたことを除いては――。





 ジョセフがセシル家の公女と出会ったのは、まだ両家の関係が良好だった頃のパーティの席だった。ドラモンド家の屋敷へ招かれたセシル伯、それに伴われてやってきた年若い令嬢。上品に整った顔立ち、成り上がり伯爵の令嬢とは思えないほど洗練された所作と、気品の中にも時折垣間見えるあどけなさ。ジョセフは一目で恋に落ちた。

 美しいセシル伯爵令嬢は、名をシャーロットと言った。


 二人はパーティの度に親交を深めた。ジョセフはすっかりシャーロットの可憐さの虜になっていたし、シャーロットもジョセフの世間ずれしていない優しさに少しずつ惹かれていった。両家の関係が険悪になってからは、文通で密かに愛を育み、また時折人目を忍んで逢瀬を重ねたりもした。

 父の急死に伴い爵位を継いだジョセフは、セシル家との関係を修復し、シャーロットに正式に結婚を申し込むつもりだった。もちろん、セシル伯は難色を示すだろう。だが、ジョセフには説得する自信があった。両家の諍いの種はドラモンド家が所有する森。シャーロットとの婚約を認めてくれるのならば、森の一つや二つなぞくれてやってもいいと考えていた。それさえ解決できれば、二人の愛を隔てるものは何もない――はずだった。


 しかし、その矢先。

 王族に連なる侯爵家の長子とシャーロットの婚約が発表されたのである。


 王族と血縁関係になれば、セシル家の家格と名声、影響力は一気に高まる。そのためにセシル伯は、娘の美貌を利用したのだ。家格の低い伯爵家と王族との婚姻は極めて異例のことだった。古今東西を問わず、どこにでもある政略結婚。律儀で清廉なシャーロットには、それを拒むことなどできなかった。

 ジョセフの元に届いた最後の文には、ジョセフへの愛と謝罪の言葉が、何枚にも渡って綴られていた。読んだそばから涙に滲むインク。居ても立ってもいられず、ジョセフは単身馬を駆りセシル家の屋敷へと乗り込んだが、屋敷の番兵に阻まれ、あえなく門前払いをくらう。

 以後、ジョセフはシャーロットと会うことも言葉を交わすこともできぬまま、失意の内に、僅か十九歳の若さで病に斃れた。




 そして数か月後。棺の中で目覚めたジョセフは、鋭く伸びた牙と体中に漲る禍々しい魔力から、自らが不死の王、ヴァンパイアとして蘇ったことを悟った。

 よりによって、何故私が吸血鬼に。ジョセフは激しく動揺した。

 シャーロットの居ない現世に未練はない。愛しいシャーロットが他の男の腕に抱かれている様を想像するだけで気が狂いそうになる。一生こんな苦しみを抱えながら生きていくのなら、死んだ方がマシだ。シャーロットを失って以降、ジョセフは慣れない博打と酒に溺れ、瞬く間に健康を害して、あっけなく死んだ。宗教上の理由から自殺が許されないジョセフにとって、それが最後の望みであり、救済のはずだった。それなのに――。


 墓地の地中深く埋葬された棺からどうにか這い出したジョセフは、闇夜に紛れて、自らが生まれ育ったドラモンド家の屋敷へと戻った。

 屋敷はもぬけの殻だった。ドラモンド家にはジョセフ以外の男子がおらず、その彼自身も後継者を残さぬままこの世を去ったため、ドラモンド家は断絶。広い領土の大半はセシル家に併合された。屋敷で働いていた使用人たちは、そのままセシル家で召し抱えられたらしかった。


 また、これは後にわかったことなのだが、ジョセフの直接の死因は病死ではなく、セシル家の息のかかった使用人たちがワインに水銀を混ぜたことによる水銀中毒だった。ジョセフはセシル家に殺されたのだ。

 だが、それを知っても尚、ジョセフは恨むどころか、誰も責める気にはなれなかった。シャーロットを失って以後、ジョセフは身の破滅とその先にある死を望んでいた。それに、セシル家に殺されずとも、ジョセフは屋敷や土地、財産を博打で失い、名誉と伝統あるドラモンド家の晩節を汚していただろう。そうなれば、使用人たちは職を失い、路頭に迷うことになる。セシル家からの誘いを断れなかったとして、いったい誰が彼らを責められようか。むしろ、彼らにしてみれば、長年仕えてきたドラモンド家の名誉を守るための最後の奉公だったとも言えるかもしれない。


 そう、ジョセフには現世への未練もなければ、深く憎悪する相手がいたわけでもない。この絶望に満ちた世界の軛から、早く解放されたかったのだ。そしてそれは確かに一度果たされた。なのに何故、よりにもよって永遠の生命を持つと言われる吸血鬼として蘇ってしまったのか。神は何故そうまでして私に苦しみを与えようとなさるのだ。いや、これは悪魔か。あの放蕩生活の中で、私の魂はすっかり穢れてしまったのかもしれない。この新たなる命は、自ら破滅を望んだ私に対して、神が下した大いなる罰なのだ。

 しかし――ジョセフは考えた。いかに不死の王ヴァンパイアといえども、無限の魔力を持つわけではない。その魔力の源である新鮮な生き血を摂取しなければ、いつかは魔力が尽き、私の魂は再び永遠の眠りに誘われるだろう。何十年、いや何百年かかるか知れないが、それ以外に、この苦しみから逃れる術はないと思われた。


 そして、この日からジョセフの、地獄のような飢餓と悲しみと衰弱の日々が始まったのである。


 ジョセフがこの旧ドラモンド邸で飢えに耐えている間、外の世界では色々なことがあった。

 侯爵家に嫁いだシャーロットは三人の男子と二人の女子を産み、侯爵の妻として死んだ。セシル家は影響力を大きく拡大させ、今では国内でも屈指の大貴族である。

 かつて大小数多くの動物が暮らしていた豊かなドラモンドの森は、セシル家及び王族の狩場として供され、獣たちは貴族の暇つぶしのために殺された。熊、猪、狼、鹿。それらの動物たちがドラモンドの森から姿を消して、既に長い年月が流れた。ドラモンドの森には今や、草木と虫、鳥、そして野兎やフォックスなど数種類の小動物が暮らすばかりだ。


 その気の遠くなるような時間を、ジョセフはひたすら耐えしのぎ続けた。時折迷い込んでくる人間を襲ってしまおうかと迷ったことも一度や二度ではないが、その度に、脳裏に刻み込まれたシャーロットの可憐な笑顔が浮かぶ。この苦しみと絶望に比べたら、飢えや渇きなど些細なこと。そう自らに言い聞かせ、真の不死にならぬよう、どうにか踏みとどまってきたのだ。


 途方もなく長い年月だったが、今ようやく、ジョセフの望みは果たされようとしている。たかが獣に化けるだけで、ジョセフの体は激しく軋み、悲鳴を上げているのだ。


 もう少し、あと少しだ。


 なのに、何故――。

 ジョセフは昏い天井を見上げ、問いかける。

 おお、主よ、あなたは何故、今更になって、シャーロットによく似たセシル家の娘、あの美しいキャサリンをこの館に遣わし給うたのか。

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