第2話

「ひっ……!」


 キャサリンは悲鳴を上げながら飛び退いた。

 闇の中に突然現れた青年の顔は、まるで死者のように生気が感じられなかった。閉じられた両目、血色の失せた蒼白の顔面に、ほっそりと痩せこけた頬、そして紫色の唇。いずれも、およそ生きた人間のものとは思えない。しかしよく見ると、赤毛の長い髪は意外なほど美しく艶がある。加えて、彫りの深い目元にすらりと伸びた鼻梁。舞踏会などで貴族の子弟と幅広く交流を持ってきたキャサリンにも、それは見たことがないほどの美青年だった。

 燭台が置かれた黒いテーブルの向こうに長椅子があり、青年は沈むようにそこに腰掛けている。夜会服の上下にマントを羽織った黒ずくめの装い。両肘を膝の上に乗せ、両手を前に組んで目を閉じたその姿は、まるで静かに祈りを捧げているようでもあった。


 しばしその美しい顔立ちに見惚れていると、何の前触れもなく、固く結ばれていた唇が動き始める。


「勝手に屋敷に上がっておいて、主に対して悲鳴を上げるとは、随分失礼なのではないか」


 爽やかで響きのよい声。閉じられていた瞼がゆっくりと開き、ルビーのように赤い瞳がキャサリンの両目を真っ直ぐ捉えた。その瞬間、キャサリンは胸を射貫かれたような、あるいは全身を雷に打たれたかのような、とにかくそれまで体験したことのない衝撃を受け、身体は呼吸すら忘れて完全に硬直した。


「……ふむ、ここに来るまでに相当酷い目に遭ったようだが、そのドレスの仕立てを見るに、そなたはそれなりの家柄の令嬢とみた。この辺りの貴族といえば、セシル侯爵か」


 半ば陶然としながら美しい青年を見つめていたキャサリンだったが、誰何されてようやく我に返る。ドレスも髪も、もうボロボロになっているけれど――キャサリンは背筋を伸ばし、胸を張って答えた。


「は、はい、セシル侯爵は私の父。私はキャサリンといいます。こんな夜分に、勝手にお邪魔して申し訳ありません。でも、ノッカーを鳴らしても返事がなかったし、鍵も開いていたし……とにかく、どこか屋根のあるところで休みたかったものですから」

「なるほどな……それはすまなかった。使用人など居らぬものでな」


 青年は長い髪をかき上げながらそう言った。これだけ大きい屋敷で、使用人がいないとはどういうことか。いや、そもそも、彼は何者なのだろう。


「あの……不躾かもしれませんが、貴方は何者なのですか? この辺りは父の領地のはず。領内にこんな大きな屋敷があるなんて、聞いていません。それに、こんなに広いお屋敷に使用人がいないなんて……」

「そうか……確かに知らないだろうな、セシル侯――いや、当時のセシル伯と領土を接し対立していた、三百年も前に滅んだ家のことなどは」

「……さ、三百年?」


 キャサリンは思わず素っ頓狂な声を上げた。三百年といったら、一時代、いや二時代も前の話ではないか。そんな大昔に滅んだ家の屋敷が未だに残っているだけでも驚きだが、では、彼は何故それを知っているのか。

 答えはすぐに得られた。


「質問に答えよう。私の名はジョセフ。三百年前に滅んだドラモンド家の最期の当主だ」

「ドラモンド家……の、最後の当主?」


 三百年前に途絶えた家の最期の当主、ということは、彼は……。


「ドラモンド家は代々病弱な家系で、私以外の男子は皆夭折し、父も私が成人する前に亡くなってしまった。そして、私もその例に漏れず、齢十九にして病に倒れた――はずだった。しかし、冷たく暗い棺の中で、私は目覚めてしまったのだ。不死の王、ヴァンパイアとして」


 ジョセフと名乗った青年はそう言うと、ニタッと邪悪な笑みを浮かべながら大きく口を開いた。紫色の唇から、上下二本ずつ、計四本の長い牙がヌッと現れ、赤い瞳が一際強く妖しげな光を放つ。禍々しい牙の向こうから、屋敷全体が揺れるかのような哄笑が響き、キャサリンは恐怖のあまりその場にへたり込んだ。やはり鬼火を追ってはいけなかった、と今更になって自分の軽率さを悔やんだが、もはや後の祭りであった。


「ひ、ひぃっ……!」

「はーっはっはっはっは、怯えろ、竦め、今すぐこの屋敷を出て行かなければ、お前の血を吸ってやるぞ!」


 吸血鬼は椅子から立ち上がり、コウモリのように両手を広げてゆっくりとキャサリンに近付いてきた。逃げなければ、とは思うのだが、まるで腰が砕けたかのように足に力が入らず、全く身動きが取れない。


「い……いや……」

「クックックック、若い生娘の血はさぞや美味であろう」


 長い舌をべロリと出して舌なめずりする吸血鬼。万事休すか――そう思ったのも束の間。高笑いを続けていた吸血鬼が、突然顔を歪めた。


「うっ……」


 という低い呻き声の直後、ドサッ、という軽い音が響く。吸血鬼はキャサリンの元へと辿り着くことすらできず、その場で床の上へうつ伏せに倒れ込んでしまったのである。


「……えっ?」


 当惑するキャサリン。これは吸血鬼の魔の手を逃れる千載一遇のチャンスなのではないか?

 でも、吸血鬼にとって大好物であろう美しい生娘が目の前にいるのに、気絶して血が吸えないなんて、そんな吸血鬼有り得る?

 床に倒れたまま微動だにしなくなった吸血鬼に、キャサリンはおそるおそる近付いてみた。吸血鬼なんか放っておいてそのまま逃げればいいということは百も承知だったが、元来お転婆なキャサリンの好奇心が疼いたのである。


「……あ、あの、大丈夫?」


 声をかけても反応はなかったが、軽く体を揺すってみると、『んぐっ』と小さく息を漏らした。どうやら死んだわけではないようだ。まあ本当に吸血鬼だったら死ぬことはないか。

 痩せ細った体を抱き起こし長椅子に座らせると、ようやく意識が戻ったらしく、再び開いた瞼から赤い瞳が鈍い光を放つ。


「……うっ、すまない、急に立ち上がったから眩暈が……」


 ジョセフは額に手を当てながらゆるゆると首を振った。

 これが吸血鬼? まさか。ただのヒヨワな青年にしか見えないじゃないの。キャサリンはわざと悪戯っぽい口調で尋ねる。


「ねえ、あなた、本当に吸血鬼なの? 立ち上がっただけでぶっ倒れちゃうし、体なんて私より細いし……服装だけは立派だけれど、吸血鬼どころか、まるで乞食みたいじゃない」


 乞食扱いされたのがよほど腹に据えかねたのか、ジョセフは再び立ち上がって声を荒げた。


「な、何をっ……! じゃあ、見ているがいい、今から私が吸血鬼であるという証拠を見せてやる」


 ジョセフはそう言い放つと、おもむろに目を閉じ、何かを念じるように低く唸り始めた。


「うぬぬぬ……」


 そして次の瞬間、長身のジョセフの身体が、瞬く間に小さなコウモリの群れへと変化して、部屋いっぱいに飛び出したのである。コウモリや狼に変化する能力――それはまさに吸血鬼の大きな特徴の一つだった。キャサリンはもちろん驚いたが、何故だろう、道化師の曲芸を見たときのような面白さが勝っていて、恐怖は全くと言っていいほど感じられなかった。


「へぇ~、すごいすご~い。本当に吸血鬼なのね、面白い!」


 キャサリンがパチパチと手を叩きながらその芸を称えると、コウモリたちは一斉に夜会服の中に潜り込み、もぞもぞと動き回りながら、再び次第にジョセフの姿を形作ってゆく。完全に元の姿に戻ったジョセフは、眉根を寄せながら言った。


「お主、私が怖くないのか?」


 キャサリンは恬然とした態度で答える。


「……ええ、何故かしら……最初はちょっぴり怖かったけど、今はちっとも怖く感じないわ。何だかんだ言って、結局私を襲おうとはしないし――そもそも、貴方はどうしてそんなに痩せているの?」

「それは……」


 やや俯き加減になったジョセフの表情に、少し翳りが見えたような気がした。


「それは、私が吸血鬼になって三百年の間、一度も血を吸ったことがないからだ」

「……えっ?」


 ジョセフの紫色の唇から告げられた予期せぬ言葉に、キャサリンは息を呑んだ。不意に訪れた静寂を、夜風にそよぐ森のざわめきがかき消す。

 沈黙を破ったのは、小刻みに肩を揺らすキャサリンの小さな唇から発せられた破裂音だった。


「……ぷっ」

「……何がおかしい」

「……いや、だって……ふふ、それじゃあ、やっぱり貴方、吸血鬼は名乗れないわよ、一度も血を吸ったことのない吸血鬼だなんて」


 こみ上げてくる笑いを堪え切れず、キャサリンは先程のジョセフの哄笑をも上回るような大声で笑い転げた。

 キャサリンの反応がよほど不満だったのだろう、ジョセフは顔を背け、不機嫌そうに頬を膨らませる。そんな彼の横顔に、キャサリンは奇妙な愛おしさを感じていた。ジョセフの言葉が本当なら、彼も元々は貴族だったはずなのに、子供のように拗ねるその表情には、貴族らしからぬ純朴さが窺えたからだ。普段交流している上流階級の子弟たちの、仮面のような優しさとは違う。

 ジョセフの態度に嘘は感じられなかったし、吸血鬼のくせに一度も血を吸ったことがないという話も、キャサリンには何故か真実のように思われた。


 目の前でふくれっ面をしているこの男に、キャサリンは強い興味を持った。

 森の中を彷徨い歩いた疲労はもう完全に吹っ飛んでいる。恐怖なんて微塵も感じない。もっと彼のことを知りたいと思った。こんな感情は初めてだった。その相手が人間でなく、事もあろうに吸血鬼とは、何たる皮肉だろう?


 キャサリンは、最も強く疑問に感じたことを、思い切って尋ねてみた。


「ねえ、ジョセフ。吸血鬼なのに、あなたはどうして血を吸わないの? そんなに痩せ細ってまで……」


 しかし、ジョセフはそれには答えず、視線を窓の外へ向けた。


「これからどうするつもりなのだ、キャサリン。このままここで夜を明かしたら、明日屋敷に戻って後、どこで何をしていたのか厳しく問い詰められることになるだろう。やむを得ぬこととはいえ、まさか嫁入り前の侯爵令嬢が、どこの馬の骨とも知れぬ男と二人きりで夜を過ごしたなどと話すわけにもいくまい。父君や母君にどう弁明するつもりなのだ?」

「それぐらい……どうにかなるわ」

「そうもいかないだろう。それに今だって、君の両親や使用人たちは、君を探し回っているはずだ」

「でも……だからって、どうしろっていうの? 屋敷までの帰り道もわからないし、それに、もうクタクタで歩けないわ」


 都合のいい時だけぶり返す疲労。しかし、帰り道がわからないのは事実である。

 すると、ジョセフは黒いマントをこれ見よがしに翻しながら言った。


「私が屋敷の近くまで送ってやろう。外に出なさい」


 言われるままジョセフに連れられて外に出ると、ジョセフは再び小さなコウモリの群れへと変化し、コウモリたちは羽音を立てながらキャサリンの体をふわりと宙に持ち上げた。慣れない浮遊感と体中にまとわりつくコウモリの生温かい感触に、キャサリンは思わず悲鳴を上げる。


「きゃっ! ちょっと、どこ触ってるの!?」

「仕方ないじゃないか、こうするしかないんだから。それより、地面に叩きつけられたくなかったら、無駄にバタバタ動かないでくれよ」


 この短い会話のうちにも、ジョセフの大きな屋敷は、手のひらに載せられそうなほど小さくなっていった。眼下を流れる黒い森はキャサリンが想像していたより遥かに広く、私はこれだけ長い距離を彷徨い歩いたのかと、キャサリンは改めて驚かされた。

 しかし、何時間もかけて歩いてきた道のりも、空を飛べばあっという間だった。煌々と明かりが灯されたセシル家の屋敷。生まれてから今までずっと暮らしてきた屋敷なのに、空から見下ろす館の全景はまた新鮮に感じられた。篝火の明かりの中を夥しい数の人影が横切り、もう夜中だというのに、忙しく立ち動いている様子が見てとれる。


「ほら、きっと君を心配して探しているんだ」


 ジョセフはそう言うと、屋敷の近くの人目につかない繁みまで降下して、キャサリンをそこに下ろした。


「……ありがとう」


 キャサリンが礼を述べると、ジョセフは人間の、いや吸血鬼の姿に戻り、照れくさそうに頭を掻きながら、キャサリンに背を向ける。


「……ふぅ、重かった」

「え? 何ですって?」

「礼などいらん。それより、これに懲りたら、もう二度と一人で森に入らないことだ。次に同じようなことが起こったとして、私が助けに来られるとは限らないのだからな」

「あら、心配してくれるのね、優しい吸血鬼さん」

「ばっ、バカなことを言うな。次に会ったら、今度こそ血を吸ってやるからな!」


 ジョセフは吐き捨てるようにそう言うと、今度は痩せ細った狼の姿に変化して、繁みの中へと一目散に駆けていった。

 次に会ったら――去り際にジョセフが放ったその一言が、キャサリンの耳の奥にやまびこのように反響していた。そう、今日はキャサリンが気まぐれに森に迷い込み、偶然あの屋敷に辿り着いただけ。再び彼と会えるという保証はどこにもない。それなのに、これで終わりではない、という確信に近い予感が、キャサリンの胸の奥に確かにあった。おそらくジョセフもそうだったのではないか。だからきっと、最後にあんな捨て台詞を。

 ジョセフが消えた繁みを見つめながら、キャサリンはほぼ無意識のうちに呟いていた。


「今度は私の血を吸いに来てね、優しい吸血鬼さん」

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