第32話 よかったぁ
次の瞬間、亜莉沙は泣きだして崩れ落ちた。
「よかったぁ…。」
それを昌之があわてて支える。
「ちょ、ちょっと…。」
そこは鳥居の真下で、どこにも座るところは無い。
昌之はどこかにベンチでもないかと思ってあたりを見回したが、どこにも座れそうなところは無かった。
亜莉沙は変わらず声をあげて涙を流している。これが初めて見る号泣というものかと昌之は妙な感想を持つ。
大学正門の斜め向かいということもあり、そこから大学に入っていく学生たちからは丸見えで、足を止める学生はいないものの、何人かは不思議そうな表情をしたり、中にはニヤニヤ笑いながら2人を見て正門を入っていく。
正門前の警備員が無表情でこちらを見ている。
昌之は亜莉沙を抱きかかえて、とりあえず神社の中に入っていった。
そうしながらベンチかなにか、とにかく腰を下ろせる場所を探した。
広い神社の境内は、それでもベンチらしいものはどこにも無く、昌之は何とか腰を下ろせる場所ということで、石灯籠を見つけてその台座に亜莉沙を座らせた。
亜莉沙は崩れおるように腰を下ろす。
ここまでずっと泣きっぱなしであった。何か昌之に言おうとしていたが、むにゃむにゃと聞こえるばかりで、昌之には何を言っているのかさっぱりわからなかった。
「そんなに泣かなくても。」
昌之は腰を下ろした亜莉沙の髪を撫でた。
「うん。」
としゃくりあげながら言う言葉だけは、なんとか聞き取れる。その後もしばらく亜莉沙は泣き続け、昌之はその髪を撫でていた。
朝の風が境内を吹き抜けて、散歩らしい近所の老人が昌之と亜莉沙にちらりと目線を向けただけで、通り過ぎて行く。
ここは大学の前で、変なアベックは見慣れているのだろうか。そう思って、昌之は少し恥ずかしい。
「生きててくれたのね。」
ようやく亜莉沙は意味の通る言葉を出すことが出来た。
「死んだなんて、誰が言ってたんだ。」
「だって墜落したって。」
「墜落したから死ぬとは限らないだろう。…でもまあ、死んだと思うかもな。」
「死んだと思ったのよ。」
やっと会話が成り立つようになった。
気持ちが落ち着いてくると、亜莉沙は舞美がアルミ製の松葉杖をついているのに気が付いた。
「怪我したの?」
「ああ、骨折した。なんせ三千メートル以上の高さから墜落したからね。」
「それでどうして助かったの。」
「地表ぎりぎりでパラシュートが開いたんだよ。落下速度をいくらか殺せた。それから、そのまま湖に落ちたんだ。湖はシャーベット状の氷が張ってて、それがまたラッキーだった。」
パラシュートはほとんど地表に届く寸前に開いた。
もっともその高度ならば、パラシュートが開いたとしても落下の衝撃は相当なもので、衝撃で内臓破裂を起こしても不思議ではない低い位置から着水してしまった。
昌之にとって幸運だったのは、氷が張った湖に落ちたことだ。
ただの湖水ならば、ある程度の高さから落ちれば、それはコンクリートの上に落ちたのと同じ衝撃を受けてしまう。やわらかい地面のほうがまだマシなくらいである。
その湖面に氷がシャーベットのように張っていた。
このやわらかい氷が落下の衝撃を和らげてくれた。昌之は足の骨折が一カ所だけで、外傷はほとんどなかった。
むしろ昌之にとって危険だったのは、氷が張るほどの冷たい水の中に落ちたため、低体温症になってしまったことだった。
落下した時、最初は死を覚悟したものの、水に落ちたあとにも意識はあり、これは助かったのだと確信が持てた。同時に足に激痛が走ったが、これも命があることの証明だと思って、かえってほっとしたくらいだった。
とにかく呼吸を確保しないとと考えて、昌之は手足をばたつかせて水面に浮きあがろうとした。
足が水を蹴るたびに激痛が走ったが、そんなことはかまっていられない。浮き上がらないと、せっかく助かっても溺れ死んでしまう。
最初はそうやってじたばたしていたが、昌之はダイビングスーツには浮力があるはずだと思いついて、動くのをやめた。すると体はゆっくりと浮上しはじめた。
その時には、しめた、俺はなんて幸運なんだと思っていた。
水面に顔がでると、ほとんど昌之は生還を確信していた。
そのまま水面に浮いていると、そのうち誰か気付いて助け上げてくれるだろうと思っていた。
だが誰も来なかった。
ここはカナダの大平原の中にある湖である。周りを見まわしても人影どころか家すら見えない。
そのうち体がぽかぽかと温かくなるのを感じた。頭がぼんやりとして幸せな気分になってくる。
命が助かったのだから、幸せを感じるのは当然のことだと思っていたが、すぐにこれは低体温症の症状だと気付いた。
昌之は以前、海でスキューバダイビングをやりながら写真を撮っていた時、これとよく似た感覚にとらわれたことがある。
体が温かくなり幸せな気持ちになってくる。体が温かくなるのは体温が下がっているせいだ。水温より体温が低くなるので、脳は温かいという感覚を持ってしまうのだ。脳が暖かい感覚を認識するので、気分は幸せになる。そのまま眠ってしまう場合すらある。
だがこれは非常に危険な症状だ。
眠ってしまえばもう起き上がることは無い。そのまま低体温症で死んでしまう。
その時は、一緒に潜っていたベテランのスキューバダイビング経験者が気付いてくれて、すぐに昌之を海から引っ張り上げてくれた。
それに気づいて昌之は、頭の中を支配するすばらしい幸福感と体の暖かさと戦いながら、水をかいてなんとか岸にたどり着こうとした。
しかしこれは足の激痛が、それをさせてくれなかった。骨折しているのだろう程度のことは解った。
必死で水をかいて足で蹴ったが、体は全くといっていいほど動かなかった。
さらに昌之の周囲を取り巻いている、さっきは命を救ってくれたシャーベット状の氷が邪魔をして、ほとんど動くことが出来なかった。
体はどんどん温まっていき、意識がもうろうとしてきた。
なんとか墜落死から助かったのに…。
幸せな気分とは別に、昌之は死の恐怖と無念さを感じながら、そのまま温かい眠りに落ちて行った。
眼を覚ましたのは病院のベットの中で、昌之は気付かなかったが、昌之が低体温症と戦っていてた時、岸にはすでにレスキュー隊が到着していたらしかった。
あのセスナ206のパイロットが空から管制塔に通報してくれたのが、素早いレスキュー隊の到着につながった。これも幸運の一つだったろう。
意識を失っていた昌之は、そのまま手当を受けながら救急車で病院に搬送され、一命をとりとめたというわけだった。
ほとんど一昼夜眠っていたが、眼を覚ました直後には、母と父が病院に到着した。命に別状はないと聞いて安心していたことは言うまでもない。
日本領事館からも問い合わせがあったが、死亡事故ではないと病院が答えておいた。
死亡につながる事故では無かったので、地元メディアがニュースにした以外には、ほとんどニュースにならなかった。
日本のメディアは取材にすら来なかった。そんなわけで、昌之の事故のことは日本にはほとんど伝わらなかったのだ。
そればかりか、父の秀之は昌之が生きていてほっとしたその後で、今度はひどく怒り始めて「バカなことをやってるからこんな事になる。もうカメラマンはやめて日本に帰れ。」と怒鳴って、一人で帰国してしまった。
後で母の貴代子に聞いたのだが、父が怒っているせいで、武士沢家やその関係者の間で、このことを口にするのがはばかられる雰囲気が出来てしまった。
このことが、亜莉沙に昌之の生存が伝わりにくくなった理由の一つでもあった。
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