第29話 亜里沙の祈り
「墜落?」
亜莉沙が昌之のことを聞いたのは、母の莉恵子からだった。
昌之からSNSのメッセージに返事が来なくなった。それも突然にである。亜莉沙は不思議に思った。
ただ嫌な予感のようなものを感じた。
今までこんなことは無かった。昌之は必ず「今まずい」とか「後で連絡する」などのメッセージを、すぐに返してくれるのが常だった。
それなのに昌之からのメッセージは、ぱたりと止まった。
これはフラれたというわけではないはずだ。昌之の性格はよく知っているつもりだった。誠実で実直な昌之ならば、たとえ自分をフるにしても、きちんと話をするはずだと思ったからだ。
とにかく連絡が来なかった。
その理由を聞いてくれたのが、莉恵子だったのだ。
あまりに亜莉沙が心配しているので、母が例の仲人に電話をしたようだった。
母には昌之と交際していることは言っておいた。ただその事を、特に武士沢の家に、こちらから話をするということは、今までしていない。
昌之が家を出た理由が理由なので、音羽家としては、いちおう見合いを破談にした側であるということもあり、交際のことは言っていない。
もっとも、武士沢家側がそれを知っているのかどうかは、亜莉沙も母も知らなかった。
母の問い合わせで、昌之がカナダで墜落したことを知ったのだった。
「でも、そこまでしか解らなかったの。仲人さんも武士沢の家と特に親しいわけじゃないみたいで、それ以上のことは解らないのよね。」
「墜落ってことは、怪我してるのよね。」
「怪我なのか死んだのか、それもわからないって。」
それを言って、母の莉恵子はつまらないことを言ってしまったと後悔した。
亜莉沙がすぐに真っ青になったからだ。
「死んだって…」
「まだ死んだと決まったわけじゃないのよ。
とにかくあちらのお宅のお母さんと、それからお父さんも今カナダに行ってるんだって。
てことは命は助かってるんじゃない。だって死んだんなら、遺体を日本にすぐに送り返してくるでしょう。」
まだ亜莉沙は言葉が出ない。
「ニュースでも、カナダで日本人が墜落死とか全然出てこないし、きっと大丈夫よ。怪我だけですんだんだと思う。」
莉恵子はそこまで言って、いくら言っても火に油を注ぐだけだと解って、言葉を切った。
そんな言葉で亜莉沙の青ざめた表情は、全く変わることが無かったからだ。
「武士沢さんの家に電話して確かめたい。」
「それはやめた方がいいよ。もし昌之さんが生きていて、亜莉沙が昌之さんとの将来を考えているのならね。
あちらのお宅は、多分亜莉沙と昌之さんのこと、まだ知らないと思うの。
そうなるといろいろ面倒なことになるわよ。」
莉恵子はここで年の功を見せた。
「2人のことは、昌之さんからきちんと言ってもらうようにしないと。」
母の言う通りだと思った。
その後は、亜莉沙にとって、自分と世の中のことが完全に上の空になってしまった。
大学に行っても授業は全く耳に入らなかった。スマホに友人からSNSでメッセージが入っても、返事をしなかった。いや、返事が出来なかったのだ。
それなので、しばらくして心配した友人から「どうしちゃったの。亜莉沙。」と再送メッセージが来るほどだった。
「死んでいるのかもしれない。」その思いが亜莉沙を苦しめた。
そう思うと夜眠れないのはもちろんだが、朝も早く起きてしまう。そして途方もなく不安にかられるのだった。
大学の一般教養で取った保健の授業で、朝不安になるのはうつ症状だと聞いたことがある。自分はうつの初期に違いないと亜莉沙は思い込んでいた。
修学院大学の正門の前に神社がある。
亜莉沙はそこに、大学に行く前と後に願掛けに行くのが日常になってしまった。
亜莉沙にはこういうところがあり、なにかきっかけがあると神仏に願掛けしたりするのだ。
それに今は、そうする以外に何の方法も無かった。神社で手を合わせて、どうか昌之さんが生きていますように、ふたたびメッセージが来ますように。そう願うと、少しは気が楽になるように思える。
さらに、昌之さんが帰ってきたら、武士沢の家に話をして、2人の交際を認めてもらえますようにと、かなり先走った願掛けをすると、気持ちが甘く切なくなった。
とにかく神社の願掛けは癒される。
そう思って1日2回の願掛けを亜莉沙は欠かさなかった。
とはいえ、それで何か状況が良くなるわけでもない。亜莉沙には他に何もできなかった。
願掛けをしていると、ふと海部のことを思い出した。海部は僧侶である。海部にも祈祷のような事をしてもらおうか。いいアイデアのように思える。
海部には昌之の名前などは言っていなかったが、自分には交際している恋人がいるとは、話したことがある。
それについて海部は特に何も言わなかったのだが。
「私の愛する人が大変なことになっているようです。どうか生きているように、海部さんも祈ってください。」
SNSの使えない海部に、そうメールを送った。
しばらくして海部からメールが来た。
「すべては阿弥陀如来様のお力です。今日、朝の祈祷で祈っておきましたよ。」
しばらくして、海部から2通目のメールが来た。
「阿弥陀如来様は亜莉沙さん自身ですよ。」
ときどき海部はこんな意味のわからないことを言ったりする。
それでも、亜莉沙には海部の優しい気持ちが伝わってきて、そのことが嬉しかった。
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