第28話 最期の空の写真
セスナ206は高度を上げて雲の上に出た。
「もっと高度が欲しい。上げてくれ。」
昌之はそうパイロットに大声で指示した。
「わかってる、マサ。そんなに怒鳴るな。ちゃんと聞こえてる。」
そうだった。装着しているヘッドセットで、普通に喋れば聞こえるはずなのだ。すでにセスナの窓は開いていて、そこから吹き込む風がやかましい。
思わず声が大きくなってしまっていた。
「オーケー。すまない。」
そう昌之は返した。今度は普通の喋り方である。
セスナ206は高度をぐんぐん上げているのがわかった。昌之はその時、カメラとパラシュートのチェックをしていて窓の外を見ていなかったが、それでも床がエレベーターのように上昇しているのが、靴先で感じられた。
この飛行機にはパイロットと昌之しか乗っていない。だから軽いということもあるだろうが、軽飛行機にしてはたいした上昇力だ。そう思わないではいられない。
チェックを終えて、昌之は椅子に座りなおした。そして窓の外を眺めた。
さきほどとは違い、窓の外はちょっとした雲海だった。
もっとも一面の雲海というほどではない。カナダの南部に位置するマニトバ州のこのあたりは、今の季節ではよく晴れていて、真下にはほとんど雲が無い。
さらに昨日まで雪が降っているような天気だったこともあり、今日は晴れときどき曇りといった天候だった。
もっともそのほうがいい。
期待通りの天気だ。わざわざアメリカからやってきた甲斐があったというもので、此処にはいい雲がある。カメラを喜ばせることが出来そうだ。
昌之は、自分が満足げな表情を浮かべているだろうと思っていた。
「マサ。もう高度一万に達しそうだ。」
「限界かな。」
「これ以上だと与圧が必要な高度になる。」
「オーケー。もう行くよ。ありがとう。」
昌之はそう言いながら、ドアに手をかけてスライドさせる。
足元に広大なマニトバの原野が広がっている。
一万フィートから見下ろすその風景は、ほとんど畑だがその間に湖が点在している。湖は凍っているところもまだあるようで、半分白くなっている湖もある。
昌之はつま先をその台地にせり出させた。
「ゴー。」
「グッドラック。よい仕事を。」
その声は、空に飛びだした昌之のヘッドセットから響いた。
巨大な風圧が昌之の口を塞ぐ。トレーニングの時に習った要領で、呼吸を確保する。
両手を広げて降下速度を調整し、体を安定させた。かなり体力のいる体形で、このためにトレーナーの指示に従って、昌之は久しぶりの筋トレまでやっていた。
それもこれもいい写真を撮るためだ。
実のところこの降下が、写真を撮るという純粋な目的のためとしては、まだ2回目だった。
前の降下はアメリカのテキサスでやってみたが、あまりいい写真は撮れなかった。
テキサスは晴れすぎていて、雲がほとんど無かった。ここカナダでは、春のやって来かたは日本と同じで、春と冬が交互に訪れる。それなのでこの季節でも雪が降ることもある。
だからいい雲が出来るのだ。
ダイビングした高度は一万フィートだった。下に降りるまで時間は十分ある。両手を広げた真下には大地があるものの、この高度からなら空の一部のように感じられた。
昌之は周囲を見回した。
時間があるとはいえ限られたものだ。すぐにいい構図を決めて、撮影しなければならない。
胸に固定したブライトβⅡの動作は確認済みだ。
もっといいカメラもあると思っているのだが、昌之はこの実家が経営している会社のカメラにこだわっていた。
何故だかわからない。あるいは心のどこかに父とその父に黙って自分を支えてくれている母への想いがあって、それがこのブライトβⅡに自分を向かわせている理由なのかもしれない。
そう思いながらも、昌之は周囲を見回してよさそうな雲を探した。
なんとか自分のイメージに合う雲を見つける。正直もう少し小さいと、空の青さと大地の薄茶色の中で、いいバランスを見せてくれるのだが…
まあ、それを言っても仕方が無い。自らは自然の意志に従い、ただそれを撮るだけしか出来ないのだ。
カメラをその雲に向けた。
ブライトβⅡは最新モデルで、フルデジタルの一眼レフカメラである。撮影はモード選択になっていて、そのモードの中には、動画撮影モードもある。
今のように、スカイダイビングの降下中で自由に撮影ポジションを決められない場合は、動画撮影モードにしてまず撮影し、その中からいいショットを切り出すことにしている。
というよりも、そうする以外に無い。
昌之は胸に固定したカメラを雲に向けて、左腕に固定してあるディスプレイを覗き込む。
降下しながら重いカメラを手に取って、ファインダーを覗きこみながら撮影するのは現実的ではない。場合によってはカメラを風圧で吹き飛ばされて、危険な事態になることも予想できる。
それなので昌之が考え出したのは、胸にカメラを固定して、腕にも固定したディスプレイを見ながら撮影するというテクニックだった。
最新のデジタルカメラのブライトβⅡならば、このようなシステムを組むことが十分可能なのだ。
ディスプレイの真ん中に雲が映っていた。
悪い形ではない。現在の位置からは雲はほとんど横に並んで見える。
雲はまるで空に浮かんだ小島のように見えた。
必死で体勢をとりながら撮影している昌之のことなど、まったく気にもかけないようにのんびりと浮かんでいた。
こういうふざけた雲はあまり好きではない。
もっといい雲は無いかと、昌之は周囲を見回した。
上を見ると、ここまでの降下で通り過ぎた雲が見えた。下から見上げる雲は撮りたくないのが本音だ。
なにしろ人はたいてい下から雲を見上げている。人々が日常的に見ている風景を撮るわけで、カメラマンとしては独創性に欠けるショットになってしまう。
見回している昌之の目に、これまで見たことのない光景が写り込んできた。
今の時間は少し太陽が傾いていて、見上げるといっても、まだまだ高度はあり、雲は近い位置にある。その雲に斜め横から陽光が差し込んできていた。雲はその太陽の光を反射して、オレンジ色に輝いている。
すばらしい光景だ。
昌之は感動のあまり、一瞬カメラを向けるのを忘れたほどだった。
すぐにカメラを向ける。ディスプレイを覗き込んで、構図がきちんと取れているか確認する。
自分がイメージしていた通りの構図だった。
ディスプレイだとよく解らないが、いい写真が撮れている手ごたえがある。
下に降りてもっと大きいディスプレイで見るのが楽しみだ。
そのまま昌之は雲にカメラを向け、ディスプレイを見ていた。
「マサ。聞こえているか。そろそろパラシュートを開け。」
ヘッドセットから声がした。
セスナ206のパイロットだった。まだ飛行場に戻らないで昌之を見ていたのだろう。
「オーケー。」
昌之はそう答えて下を向いた。
大地は意外に近い位置にあった。撮影に夢中になっているうちに思ったより高度を下げてしまったようだった。
カメラのシャッターを上げて、自分の体勢をまた両手を広げて降下速度を調整する形にした。
この高度になると大地が迫ってくるのを、視覚で感じ取ることが出来る。
その体勢のまま昌之は、体の右脇にあるパラシュート展開のワイヤーを引っ張った。
パラシュートは開かない。
もう一度、昌之はワイヤーを引っ張る。またパラシュートは反応しなかった。何度か引っ張ってみたが、やはりパラシュートは全く開かなかった。
焦りのようなものを感じたが、まだ心に余裕がある。昌之は左脇にある予備パラシュートのワイヤーを引っ張った。
これも開かなかった。
昌之は何度もそれを引っ張るが、まるでワイヤーはパラシュートに繋がれていないかのように、全く反応しなかった。
「マサ。何してる。早くパラシュートを開け。高度が下がりすぎている。」
ヘッドセットからセスナ206のパイロットの声がする。
「パラシュートが開かない。」
「何だって? 良く聞こえない。」
それには返事をせず、昌之は冷静になるように自分に言い聞かせ、ワイヤーの周囲を調べて見た。
特に異常はない。ワイヤーが切れている訳ではない。切れていればその切れ端を引っ張って、パラシュートを展開させることも出来る。
だがそれは絶望的だった。
昌之はまだ冷静だった。自分でも驚くほどこのピンチに冷静でいられた。
さらにワイヤーを調べていると、カメラのディスプレイのコードがワイヤーに絡まっているように見えた。
カメラのせいか…
すぐにカメラを捨てなければ。だがそれは今撮った写真を捨てることになる。あの素晴らしい雲の写真を。
一瞬の躊躇いがあった。
その次の瞬間、母の貴代子の顔が頭に浮かぶ。続いて何故だかわからないが父の顔も浮かんだ。
昌之はためらわずカメラとディスプレイを装着していたベルトを外し、カメラを捨てた。
そして予備パラシュートのワイヤーを引っ張った。
それでもパラシュートは反応しなかった。
「マサ。何してる? 高度が下がりすぎている。危険だ! パラシュートを開け。」
大地は巨大で平たい弾丸のように迫って来た。
種を撒く前の茶色い畑と、半分凍った湖が高速で自分に迫ってくる。
亜莉沙のことが一瞬頭に浮かんだ。もうあの子とは会えないのか。それだけがこの瞬間に心残りだった。
大地はもう昌之のすぐ下にあった。
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