第24話 空の写真を撮るためには

 昌之は亜莉沙とSNSで連絡する時以外は、実は亜莉沙のことをほとんど忘れている。

 アメリカで成功を目指すためには、日本の恋人のことなど考えている余裕はない。

 恰好つけて言っているのではない。事実がそうなのである。全てをカメラマンとしての成功に賭けて、走り続けなければならない。


 無給でリッキーのもとで働いている。

 リッキーはそれなりにカメラマンとして成功している男だ。クライアントとなるメディアともパイプがある。だからリッキーのもとで働くことには、大いにメリットがあるのだ。それが給料無しの条件であってもである。

 とはいえ無給では生活できないはずなのだが、これが昌之が他のカメラマンの卵たちと違うところで、武士沢昌之は生活に困るような環境ではなかった。

 武士沢家は日本でも指折りの資産家で、昌之はその資産の後継者と言っていい。だからそれを知っていたリッキーも、遠慮もしないで無給という条件を出してきたのだ。


 もっとも昌之はそのことをリッキー以外に話したことは無かった。

 裕福であることから妬みも買うだろうし、アメリカでは金持ちと思われると、それなりにタカられることがあることを、昌之はよく知っていた。

 それなので黙っておくに如かずと思っている。


 そんな昌之の生活を支えているのが、母の貴代子の存在だった。

 貴代子は昌之に仕送りを送っていた。

 アメリカで成功してみせると大見得を切って、日本の実家を出てきた。その自分が相手が母親とはいえ、生活のために仕送りを受けているのは、自分自身なんだか恥ずかしい気さえする。

 もっとも、昌之は短かったが社会人経験を積んできたからかもしれないが、自分の中で上手く自分を誤魔化すテクニックを身に着けていた。

 貴代子からの仕送りは、自分自身の心の中で適当に理由をつけて、満額受け取っている。


 なんにせよ自分には収入が無いのだ。となればどうにかして生活しなければならない。そのためにはくだらない…と昌之自身が思っている、若さからくる見栄などにかまっているわけにはいかないのだ。

 カメラマンとして成功すれば、この母から仕送りは、これまでのツケとして返すことも出来るだろう。

 昌之はそう考えるようにしていた。

 もっとも、そういう自分を客観視して、狡い大人になったものだと、心のどこかで苦笑いしている部分もある。


 こうして生活しながら、昌之の目下の問題は、例の雲の写真をもっと撮らないといけなくなったことだった。

 写真の売り込みサイトに掲載しておいた自分の写真に目をつけたニューヨークの雑誌社が、もっといい写真があれば買いたいと言って来ていた。

 チャンスだった。

 なんとかしてもっといい雲の写真を撮らなければならない。


「それでスカイダイビングを始めるっていうのか。」


 リッキーは、昌之がスカイダイビングのトレーニングを受け始めたと聞いて、呆れて言ったものだった。


「いい雲の写真を撮りたければ、空に行かないとやっぱり駄目だと思うんだ。山に登っても、霧の写真しかとれないからね。」


「それはそうだが昌之、ああいうの平気なのか。つまり空から飛び降りるつてことだよ。

 俺には無理だな。高所恐怖症と言うのなら、それを好きに言ってくれてもかまわないよ。」


「全然平気じゃないよ。高所恐怖症なら僕も同じだ。」


 それでもいい写真を撮りたかったのだ。


 昌之はスカイダイビングのトレーニングを受けていた。

 まず最初に試したのは、インストラクターと一緒に飛んでみることだった。

 後ろにパラシュートを背負ったインストラクターと体を繋いで、そのままダイビングするのである。

 もしこれでいい写真が撮れるのなら、そのほうがいいと思えた。とりあえずスカイダイビングのトレーニングにかかる時間と費用を節約できる。


 そして1回試してみて、やはりこれでは無理だとわかった。

 まず体の自由が効かない。後ろのインストラクターが邪魔で、カメラを自由に被写体に向けることが出来ないのである。腕すら満足に動かせない。

 さらに2人でダイビングすると、体の位置や方向などは後ろのインストラクターが決めることになる。自分の思うように、体の方向や位置を決めて、気に入った写真を撮ることは出来ないことを実感させられた。

 写真を撮るためには、やはり自分一人で飛んで、さらに自分の望む方向に体を向けるテクニックを身に着けなければならない。

 そう実感できたのが、1回目のスカイダイビング体験だった。


 さらに昌之にとってこの時は、とにかくすさまじい恐怖体験で、いかに自分が高所恐怖症という病気だか性格だかに侵されているかを、身をもって実感する羽目になってしまった。

 おまけに、1回目のダイビングに付き合ったインストラクターが、飛行機から飛び降りる直前あたりから、急にハイテンションになり、やたらと大声を上げて喚き散らすという有様で、昌之は落ち着いてカメラの位置決めなどできなかった。


 加えて、この髭を生やした大男のインストラクターは、空飛ぶホモかと思うほどダイビング中に昌之を触りまくり、パラシュートが開いた直後には、昌之の股間までいじりはじめた。

 着地して昌之が抗議すると、インストラクターはベルトの閉まり具合をチェックしていたのだと、しれっとして答えたものだ。

 とにかくそんなこんなで、昌之は自分でスカイダイビングのテクニックをマスターして、自分で空の写真を撮る以外にないと思ったのである。


「で、今日もトレーニングかい。」


 リッキーは、この日もスカイダイビングのトレーニングに出かけようとする昌之に、そう声をかけた。

 リッキーはスタジオの隅に置いてある、巨大なディスプレイを備えたマックのパソコンに向かっていた。

 いつも彼が写真の編集や保存に使っているパソコンである。

 昌之のほうは見ないで、リッキーは言った。


「仕事があるんだぞ。」


「すまない。無給のフリーだから勘弁してくれよ。」


「しょうがないな。ま、給料払ってないから仕方がないか。」


 リッキーは苦笑いをして、そのまま顔はパソコンに向けたままだ。

 リッキーには済まないと思っている。

 無給で働いているとはいえ、自分自身がカメラマンへの階段を昇る途中で、彼の存在がどれほど大きいかは、よくわかっているつもりだ。

 そもそも昌之が自分の写真をサイトに載せたと言っても、リッキーのスタジオのパートナーという肩書で載せているのだ。

 そうでなれれば、メディアが注目してくれることなど、おそらく有り得なかっただろう。


 恩返ししないといけない人たちが、どんどん増えていく。

 昌之の社会人経験は、商社に勤めていた1年あまりだけだ。社会に出るということの意味が、よく解っているとはいえない。

 しかし、世の中で生きて行くということは、恩義を感じなければいけない人たちが増えて行くということでもある。

 今まで知らなかった、人生の法則のようなものを昌之は今更ながら感じ取っている。


「明日は普通に働くから。」


 昌之はそう言って、リッキーのスタジオを出た。心の中で詫びていた。いつかこの恩返しはする。

 昌之がやっているスカイダイビングのトレーニングは、ピッツバーグから少し離れたところにある飛行場がその場所だった。

 空を見上げるといい天気だった。晴れた空に雲がほどよく浮いている。今日はいい写真が撮れる。


 いい写真が出来たならば、亜莉沙にも見せてやろう。そして、自分が人生で恩義を感じなけれはならない人たちが増えていることも、話をしたい。

 彼女なら真剣に聞いてくれるだろう。

 そう昌之には思えた。

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