第7話 昌之は一流商社マンとして

 昌之はお見合いの行われた翌日からは商社に出社して、朝から仕事をしなければならない。のんびりしている学生のあの亜莉沙とは違う。彼女が少々うらやましい。


 昌之の務める商社は、いわゆる6大商社の一つで、東京都心に巨大な本社ビルを構えている。

 昌之のような入社一年目の社員は、始業1時間前に出社して、自分の課の社員全員の机を雑巾で拭かなければならない。

 この雑巾がけは事務の女子社員のやることではない。新人の若い社員がやることになっている。これがこの商社の「社風」というものなのだ。

 これは入社式の時、今の社長自らがそう命じたのだ。

「自分も新人社員の時は、そうしたものだ。」自慢げに社長は壇の上から言ったものだ。

 この体育会系の社風が、この会社の特徴であった。

 

 社員はとにかくよく働く。昌之も言われた通り、入社翌日には30分前にやってきたのだが、その時には管理職を除くすべての課員がすでに出社していて、昌之は「遅い」と怒られたものだ。

 それからは1時間前に出社することにしている。

 8時までに会社に着くことは、朝型のライフスタイルの昌之にとってあまり苦痛ではない。

 都心のマンションに、まだ両親と暮らしているので、会社まではドアツードアで30分もかからない。早朝の都内の移動だけだから、地下鉄もそれほど混んではいない。

 1時間前に出社して、課員の机の雑巾がけをして、それから自分のパソコンを立ち上げる。

 仕事を始めたいのだが、課員が出勤してくるたびに、新人の昌之は立ち上がって「おはようございます。」と挨拶しなければならない。

 この間は仕事どころではない。


 というわけで、いずれにしても仕事が始まるのは9時からということになる。

 それからお昼休みと、この会社では認められている終業時刻ごろの夕食タイムを挟んで、だいたい10時くらいまで仕事をする。

 場合によっては終電直前の11時までオフィスにいることになる。

 これがこの会社の日常であった。


 ハードワークと長時間勤務にはもう慣れた。しかし入社一年目の昌之には、それほど仕事があるわけではない。

 はっきり言えば、そんなに長い時間オフィスにいても、夜にはやる仕事が無くなってくるのだ。

 では、夕刻の早い時間に帰ろうとしても、この会社ではそれはあり得ないことだったのだ。

 課長が帰るまでは、課員は全員残っていなければならない。

 課長がいる間は、どんな仕事が発生し課員に業務が回って来るかわからない。部下として課長のサポートが出来ないという状態にあってはならない。だから課長が居る時間は、課員は会社にいるものだ。 

 入社して一週間目に、昌之はそう先輩社員に言われたのだ。

 課長は10時より前に帰宅することはほとんど無い。それなので昌之ら課員は、仕事があろうが無かろうがずっと会社にいることになる。


 とはいうものの、その日は課長が仕事の付き合いで飲み会があるとのことで、7時前には会社を出てしまった。

 その後、先輩社員を皮切りに次々と課員は帰宅して、残っているのは昌之ともう少し社歴が上の先輩社員の2人だけとなった。

 広いオフィスにはもっと人がいて、大きなプロジェクトが始まったばかりという昌之の隣の課では、全課員が残っている。

 昌之はぼんやりパソコンの画面を見ていた。

 今作成中のファイルが開かれている。この書類はもう出来上がっているのだが、確認作業をやらなくてはいけない。 


「武士沢。まだ残ってるか。」


 その社歴の上の社員が、立ち上がってパソコンを閉じながら言った。


「ええ。このファイルを始末したら、もう帰ります。」


「それより、例の件、どうだった。」


「えっと、アメリカ支社の件でしょうか。」


「ちがうよ。お見合い。」


 昌之は少し笑った。

 そうだった。この先輩社員には話をしていたのだ。


「…いや、どうって。どうもこうも。」


「なんだそりゃ。どうもこうもって意味がわかんね。」


「いやー、だからどう答えればいいのか。」


 先輩社員はまた椅子に腰を下ろした。


「じゃあこう聞こう。相手の子のルックスはどうだった。」


「ええっ、まあ悪くは無かったですね。」


「五段階で評価するとどうだ。」


 こんな聞かれ方は昌之も予想してなかった。


「そうっすねぇ。3かな。」


 亜莉沙には悪いと思った。もう少し昌之は亜莉沙の美貌を評価していたのだ。


「そんなもんか。

 それより見合いってのはどうなんだ。今どきそんなのやってるって聞いたこと無いしな。俺もやったことないし。」


「いや、僕もなんでやることになったのかよくわからないんですよ。とにかく母が、断れないからやれって。」


「それで結婚するかもしれない相手と会ったのが。」


「いや、気に入らなければ断ればいいって言われて。それに、僕もお見合いってのにちょっと興味もありましてね。」


「そりゃわかる。お見合いと聞くと、ちょっとはやってみたいという気にはなるな。」


 先輩社員は腕を組んだ。


「武士沢のところは、名門で金持ちなんだろ。だからだよ。俺みたいな普通の家ではお見合い話なんか来ないもんな。

 まあ出会いパーティで探せばいいんだけど。」


 昌之は無言だった。

 武士沢の家だから、お見合いという時代がかった儀式もあり得たのだ。相手の音羽亜莉沙の家も、昔は華族で名門の家だと聞かされた。

 昌之はその話を先輩社員に話してみた。


「いいなあ、お前ん家は。俺はこの会社に入れただけでもう人生の幸運のほとんどを使い尽くしたように感じてる。

 それでも、お前みたいなヤツがいて、この程度の会社では幸運のうちに入らないって、言われてるようだよ。

 イヤになる…。」


「そんなこと無いスよ。」


 先輩社員は、昌之の見合い話を、予想していなかった受け取り方をしたようだった。


「それで、この後どうなるんだ。お見合いってのは。」


「この前、1回目のデートでした。まあ2.3回会って、結論を出すようにと仲人には言われているんで。」


「こんど写真見せてくれよ。スマホで撮って。その子が本当に3なのか、俺が判定するから。」


 先輩社員はそう笑って、「じゃ、俺は帰るから。お疲れ。」と言ってオフィスを出て行った。

 そうだった。また亜莉沙と会わなければならないのだった。ある理由で今の昌之には、それが少々気が重かったのだ。

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