第3話 お見合い相手、武士沢昌之
ホテルは皇居のお堀のそばに新しく建ったビルの、上層階にあった。
最近よくある、新築のビルの上層階に外資系ホテルが入っている形式のようで、入り口がビルの下でちょっとわかりにくい。
亜莉沙と母は入り口を探すのに少し手間取ったが、それでも時間より早くエレベーターで上層のフロアにあるロビーに着いた。
今日の音羽家からの参加者は、亜莉沙と母だけである。
亜莉沙は振袖を着ている。振袖を着たのは成人式の時以来だったが、それほど前のことではない。母も亜莉沙より地味に見える柄の着物姿である。
2人はそのままロビーのソファに腰をおろした。ロビーは広大で、このビルのフロアのほとんどを占めていた。
なんとなく緊張してしまう。初めてキャバクラに体験入店した時の気分もこんな感じだったと、亜莉沙は思い出す。
しばらくすると母がいきなり立ち上がったので、亜莉沙もあわてて腰をあげた。
後ろから、亜莉沙は見知らぬ女性が声をかけてきたのだ。
母とその女性はすでに知り合いのようで、親しげに挨拶を交わし、亜莉沙も丁寧に腰を曲げて挨拶した。
母の知人で、今回のお見合いの仲人という立場の女性のようだ。60歳くらいの上品な女性である。2人と違って着物は着ていない。
お見合いの仲人は、こういう場合着物は着ないものなのだろうかと、亜莉沙はそんなことを考える。
今日来るのはこの仲人だけで、お見合い話を持ち込んできた江古田の叔母は今日は来ない。それは亜莉沙も聞いていた。
「もう、あちらでお待ちなんですよ。」
仲人の女性の口からその言葉が聞こえて、亜莉沙は少し緊張する。
「今日はあちらはお母様とお2人でね。かなり早くからいらしてて。」
「それは申し訳ありませんでした。」
母はあまり本気でない響きの、詫び言葉を返している。
仲人は「ああ、いいんですよ。」とこれまた予想どおりの返事をしてから、2人を促した。
2人は仲人についていく形で、ロビーを横切りほぼ反対側に向かった。
亜莉沙たちのいた位置からはよくわからなかったが、人の背丈ほどのプラントで仕切られた向こう側にドアがあるようで、仲人はそのドアを開いて中に招く仕草をした。亜莉沙たちもそれに続く。
中はあまり広くない場所で、亜莉沙には知識が無いが、ホテルによくある会議などに使う、バンケットと呼ばれる部屋である。
中には見知らぬ2人が、部屋の真ん中に置かれたテーブルに腰を下ろしていた。男女それぞれ1人づつで、紹介されなくても今回の見合いの相手の、武士沢昌之とその母親だとわかる。
亜莉沙は急に心臓がばくばくと打ち始めた。
こんな形でいきなり会うことは予想していなかった。
仲人は2人をテーブルまで案内した。武士沢昌之とその母親は立ち上がり、深々と腰を曲げて挨拶した。
母と亜莉沙もいささか緊張しながら同じようにする。
亜莉沙は礼儀正しく、作法にかなった挨拶が出来る。母校の修学院女子中等科高等科では礼法の授業があり、このような場合の作法を徹底して教え込まれてきた。
その当時は面倒くさい授業だと感じるだけだったが、こんな場面になって、その有難味がよくわかる。「仰げば尊し」といったところである。
双方が着席すると、コーヒーとケーキが運ばれてきた。
ボーイが立ち去ると、仲人が双方の紹介を始めた。武士沢家の2人は、当人の昌之と母親の貴代子だと紹介された。
「本日はお日柄もよく・・・」
仲人は、いまどきのお見合いでもこんな話し方をするのかと、亜莉沙が驚くほど時代がかった言葉で、その場を切り出した。
さきほどからの心臓の鼓動の高まりも、少し収まってきた。
仲人の話をうわの空で聞きながら、亜莉沙は自分の正面に座った武士沢昌之という男性を観察した。
去年大学を卒業したばかりで、今商社勤務と釣書にはあった。年齢は、今現在は亜莉沙より3歳ほど年上ということになる。
メガネをかけている。さっき立ち上がったときの背丈からすると、身長は180センチと釣書にあったのは本当のようだ。
お見合い写真よりは、本人を前にした生々しさのせいなのか、ルックスもよく見える。
それでも亜莉沙がお見合い写真を見ながら感じた幼さは、やはり昌之の全身からオーラのように放たれている。
お坊ちゃま育ちとでも言うのか、裕福な家柄の生まれの男性は、皆こうなのかもしれない。
「昌之さんは、あの開星を出られて東亜義塾大学に進まれたんですよね。」
仲人が昌之に話を振った。
昌之はぎょっとしたように顔色を変えて、しどろもどろに答える。
「…ええ、そうです。まあ落ちこぼれたわけでして。」
「何を仰います。東亜義塾大学は大変な名門じゃないですの。」
仲人は笑いながらとりなす。
開星からなら東京大学というのが世間的なイメージなので、昌之はそう答えたのだろう。
亜莉沙は素直に落ちこぼれたことを認めた昌之に、少しだけ好感を抱いた。
東亜義塾大学の男子学生とは一度合コンしたこときがある。
その時は、名門大学のエリート意識ばかりが強くて、鼻持ちならないと感じたものだ。亜莉沙は東亜義塾大学をそれほど大した大学とは思っていなかったので、彼らの妙に肥大化したエリート意識に内心呆れたものだった。
それに比べれば昌之は謙虚だ。
それから大学時代の話やら、今勤務している商社の話など、仲人が振った話題に、昌之は返事を返す。
幼いと感じられるその容貌からは、ちょっとイメージが違うと思えるほど、昌之の声は低くて大人びている。男っぽい野太い声である。
仲人は今度は亜莉沙に話を振り始めた。
「亜莉沙さんは修学院大学に在学されておられるんですよね。」
「はい。文学部です。」
亜莉沙は、今度はいよいよ私かと少し緊張する。
「ご専攻は国文学とか。」
「はい、日本の近世文学のゼミに属しております。」
そんなこと釣書に書いてあったはずじゃないのと、内心思うのだが、まさかそう答えるわけにもいかない。
亜莉沙はまた再び緊張してきていた。
実は昌之に話が振られていた時から感じていたのだが、昌之の母親の貴代子が、まるでスーパーの魚の鮮度でも確かめるように、鋭い視線で亜莉沙を観察しているのである。
亜莉沙が受け答えを始めたので、その視線はますます鋭くなってきた。
亜莉沙が口を動かすたびに、唇をじっと見つめられているような気がする。そこから放たれる言葉は、昌之を溺愛する母親の頭の中のボイスレコーダーに、一言一句刻まれているのだろう。
そんなわけで、亜莉沙はまるで修学院大学の推薦入試の面接の時のように、一言づつ言葉を選びながら回答しなければならない。
「サークルは何かしておられるんですか。」
「いえ、特に何も。」
ここは母が助け舟を出した。
「今どきの学生さんは、あまりサークルとかはやらないようなんです。うちの亜莉沙も興味が無いようで。」
「それなら毎日、お暇じゃないの。」
「いえ、バイトもしてますので。」
昌之の母親の視線が急に強くなったように感じた。
武士沢家は資産二千億と聞いた。大金持ちの家では、バイトというのはあまりウケのよくない言葉だったのかもしれない。
ちょっとマズかったかな…。
亜莉沙は後悔した。ここはなんとか挽回しなくちゃ。
「何のバイトをしてるんですか。」
そう聞いて来たのは昌之だった。
これが昌之が、亜莉沙に直接話かけてきた最初だった。
亜莉沙は仲人をちらりと見て、直接返事を返していいのかと目でお伺いを立てる。そしてかまわなそうなので返事をした。
「飲食店です。」
まさかキャバクラだと答えるわけにはいかない。
「まあ、ウェイトレスなのね。これは礼儀作法が身について、いいアルバイトですわね。」
間髪入れず入れた仲人のフォローはさすがだ。
貴代子はまだ亜莉沙を見ていたが、その表情からフォローは効いたと亜莉沙は感じていた。
昌之は続けた。
「僕もバイトしてたんですよ。学生時代。飲食店で。」
これは意外だった。
「そうなんですか…。」
「はい。六本木のバーでバーテンダーをやってました。」
今度は貴代子があわてたように口をはさんだ。
「もう、うちの子は出来もしないのに、やりたいからと言って、いきなり始めたんですよ。
実はこの子ほとんどお酒が飲めなくて、それがバーでアルバイトするとか言い始めて、どうなることかと思ったんですけど、やっぱり1か月くらいでやめてしまって。
そうだったわね、昌之。」
まくしたてる貴代子に、昌之は何も言わずうなずいた。
貴代子は昌之のバーテンダーのバイトを恥ずかしく思っているようだった。あるいは裕福な武士沢家の息子にふさわしからぬバイトだと思っているのかもしれない。
亜莉沙はますますこの昌之という男性に興味を持った。
それにしても意外だった。バーテンダーという仕事は、この幼いイメージの昌之からは想像もつかない。
仲人はこの手の話は長く続けるものではないと思ったのか、話題を変えて、昌之の今の仕事の話をはじめた。
昌之の商社での仕事の話は、まだ学生の亜莉沙にとって、ほとんど興味のないことで、それよりももっとバーテンダーの話を聞きたかったのだが、さすがに今、その話題に戻すことは出来ない。
亜莉沙は、その程度は「空気の読める女」である。
そのままだいたい1時間ほどで、お見合いは終了となった。
仲人は「これからお二人で少しお話なさったら。」と言って、亜莉沙と昌之は場所を変えて、同じホテルの喫茶店に入って30分ほど話した。
それから別れて、亜莉沙はスマホで母が待っている喫茶店に向かい、母と合流して帰宅となった。
いや、家に帰る前に着付けの店によって、この重たい振袖を着替えなければならなかったのだが。
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