第45話 ネロ それは、暗中の模索 暗闇の光

 ネロの体が消えた。

 マーガレットはぽかんとして宙を見ていた。

「え……?」

 目の前にあるのは、暗がりしかない。

 ざわざわと風の音がして、時折たき火から小さく爆ぜる音が耳に届くくらいだった。

 そもそもマーガレットにはネロの一連の行動がさっぱり理解できていなかった。

 何者かと戦いをしていることは分かるのだが、まるでネロの一人芝居に見えていた。

 頭上は仄かに光っている。その光は、蠢いているようにも見える。光の正体は巨大な水の塊で、遥か上空に浮いているのだが、それがマーガレットには不思議でならない。なぜあの水は消えないのだろう。

 同じ魔法を使うものとして、本当に不思議だった。術者がいないのに、どうしてその場に魔法がとどまっているのだろうか。

 魔法の使えない人たちが時折無茶な要求をしてくるときがある。

 例えば、魔法で出した炎を街燈としてずっと外に灯しておいてくれないか、と。

 無理だ。術者から一度でも術が離れてしまったら魔法は消えてしまう。術者がずっとその魔法を使い続けているのならまだしもだ。

 永遠、半永久的に魔法を持続させることなど不可能なのだ。

 しかし、マーガレットの頭上にある水の巨塊は、その不可能にとても近いモノに思えた。

「ネロさん……一体、何者……」

 ただ物ではないことはわかっているけれど、底がしれなくて少しだけ怖くなった。

 杖を見る。

 綺麗に磨き上げられた棒だ。たき火の光が当たって、表面にはっきりと美しい艶が出ていた。少し重いけれど、愛用のロッドに比べればずっと軽い。

 マーガレットにとって、このタイプの杖は初めてだ。

 魔法の杖とは大きなものだと思っていたし、指揮棒のような杖はだいぶ古めかしく思える。

 短い杖は、科学研究が盛んだった頃に流行った。魔法歴史学の教科書の挿絵で見たことがある。その絵についてはまるで習わなかったし、魔法史の授業では科学研究の項目など三行で終わる。時代遅れな杖。マーガレットは素直にそう思った。

 けれど高そうだ。

 貴族が使うのだから、きっと樫の木の杖が百本くらい買えてしまうだろう。

 ため息を吐き、辺りを見渡せば、ぬかるみ。

「これを乾かせって……言われても……」

 火の魔法が得意だからと言われても、マーガレットにはどうすればいいのか分からない。

 確かに火では水を乾かすことはできるけれど、そんな使い方をしたことはないし、炎を出して服を乾かせというのなら分かるが、大地を乾かせなどと言われても、困る。

 天才には凡才の気持ちは分からない。

 そんな言葉がマーガレットの頭をよぎった。

 天才の常識と凡才の常識は違うし、高学歴者と一般学歴者の常識も違う。

 マーガレットは肩や背中にずっしりとした重みを感じた。

「……、ううん! ともかくやってみよう!」

 暗い気持ちを振り払い、マーガレットは大きな声を出した。

 駄目でもいいからやってみる、今は失敗してもいつかは成功するはず、やらないよりはだいぶまし、そんな様々な座右の銘がいくつも頭の中を通り過ぎ、重たい気分を隅に追いやった。

 小さな炎をたくさん出して、地面近くに浮かべればきっと水も乾くはず。

 周りの木に燃え移らないように注意して、最初は三つくらいでやってみよう。

 マーガレットは自分の実力を計算し、決して無謀な真似はしないように心掛けた。

 杖を構える。


《ファーメ》


 上手く出せる自信があった。そもそも、ファーメくらい魔力や法力がある人間なら誰だって出せる。基本中の基本だ。それに、超簡易版杖でなんども練習していた。一度も出なかったけれど、精度は上がっているに違いなかった。

 しかし、ファーメは発動しなかった。

「な、……なんで?」

 どうして。

 なんで。


《ファーメ》

《ファーメ》


《ファーメ!》


「なんで出ないの!」

 何回呪文を唱えても、魔法が発動する気配がない。

 三つの炎どころか、一つも出やしない。

 魔力が消えてしまったのだろうかと思った。けれど、空に蠢く魔力の光は見える。

 だから魔法力はちゃんとあるのだ。

 けれど出ない。


《セピュ》


 試しに風魔法も唱えてみた。これも基本中の基本だ。

 けれど出なかった。


《マキュー》


 水気が強いので水魔法ならと思ったけれど、それも出ない。


《ゾッカ》


 土魔法も当然のようにうんともすんとも言わない。

 マーガレットは青ざめた。

 震えた。

 恐ろしくなった。

 簡易版杖なら使えなくてもまだわかる。

 けれど、今手元にある杖はネロの杖だ。これを使ってネロが魔法を発動させていた場面はたくさん見た。

 この杖は壊れてなんていないし、ただの木の棒なんかじゃない。

「なんで……? なんで使えないの? なんで!」

 マーガレットの叫び声は森の中に消えていく。

 足元はぬかるんだまま。

 せっかくシャワーを浴びたのに、汚れてしまう。そんな些細なことさえもマーガレットの涙腺を決壊させるには十分だった。

 とめどなく流れ出した涙が唇に触れ、口の中に入り込んでくる。

 しょっぱさが惨めさを煽った。

 嗚咽が止まらない。

 誰も聞いていないのだから声を出して泣いたっていいのだけれど、そうしてしまうともっと惨めになってしまう気がして、マーガレットは必死に声を殺した。

 きっとネロはすぐに帰ってくるだろう。そんな気がする。

 あの人はきっと天才だから。

 ネロが帰ってくるまでに、せめて泣いた顔をもとに戻しておかなくちゃいけない。泣いたなんてバレたくない。

 自分の嗚咽の間から、マーガレットの耳に人の声が届いた。

「ネロさん……?」

 慌てて涙を拭いて顔を上げた。

 けれどどこにもネロの姿がない。


 ……―レット……マーガレットか……誰なんだ……おい……返事…………


 声がはっきり聞こえた。

 名前も呼ばれている。

「ど、どこ? 誰?」


 マーガレットか?


 声が鮮明に聞こえた。

 それはマーガレットの胸元からだった。

 はっとして、服の下からペンダントを取り出した。

 勇者の仲間の証。

 そのペンダントヘッドが光り輝いている。


《おい、返事をしろ! この魔法を使ったのは誰だ? マーガレットなのか?》


 勇者だ。

 勇者ピクスリア。


「ピクスリア! 私です! マーガレットです!」

《マーガレットか! 良かった! 無事だったんだな!》

「はい! 無事でした!」

 良かった。

 マーガレットの両目から再び涙があふれだした。

 今度の涙は喜びの涙だ。




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