第344話 もしも、迷宮が存在しなかったら
「そういえばこの前、もしも迷宮が存在しなかったとしたら、まるで発達しなかった技術体系はかなり多いと、そう聞きました」
それまで、黙ってやり取りを聞いていた世良月が、唐突に口を開いた。
「今、わたしたちが普通に使っている保護服なんかも、迷宮産の素材がなければほとんど生産できないそうですし、それ以外にも、良質な伝導物質が迷宮からは大量に出て来るので、電子器機などの開発も加速しているとか」
「もしも迷宮が存在していなかった」
香椎さんが、その言葉に頷く。
「これといった資源も産業もないこの国は、今頃先進国の座から転落していてもおかしくはない。
そういうことは、よくいわれているね」
「っていっても、仮定に仮定を重ねた上での発想だからなあ」
佐治さんが、意見を述べた。
「仮に迷宮がなかったとしても、日本人は手先が器用だから、なんらかの技術開発をしてそれを売りにして国際社会でうまくやっていたと思うけど」
「その技術開発を、迷宮から豊富に産出される物資の存在が助け、がうまく進めてきたってことは確かだよ」
黎も、そう指摘をする。
「各種マテリアルの開発と研究は、いまだにこの国が世界最先端だといわれているし」
「技術開発ってさ」
智香子は、考え考え、そんな言葉を吐いた。
「基本的に、お金がかかるもんだよね。
継続的に、人材育成をしていかないと続かないから」
「そうなるよねえ」
佐治さんは、その言葉に頷く。
「次世代の育成に力を入れないと、あっという間に尻すぼみになる」
「もしも、迷宮がない状態で」
智香子は、そう続けた。
「企業とか国とか、社会全体がその次世代の育成に、ずっと、何十年、何世代分も、途切れず努力をし続けられる可能性って、どれくらいだと思う?」
「ええっと」
黎は、珍しく視線を宙にさまよわせた。
「何十年、か。
そういうスパンで見ると、ずーっと努力し続けるのは、難しいかなあ?」
「だよねえ」
香椎さんも、頷く。
「世界的に見ても、周期的に不景気な時期というは、来るみたいだし」
「そうした時に、ふとしたはずみで教育熱が薄れちゃったとしたら」
そういう佐治さんも、いつの間にか真剣な表情になっていた。
「元の熱意を取り戻すのは、簡単なことじゃないだろうな」
「大勢の人がそうしたいと思っても、すでにそのために仕える資金がない」
黎も、そういって真面目な表情で頷いた。
「資金だけではなく、社会資本そのものが、なにかの拍子に貧弱かする、ということはあり得るのか」
「一度そうなったら、持ち直すのはかなり難しいだろうね」
香椎さんも、そんなことをいう。
「なにしろ、先立つものがなにもなくなっている」
「迷宮が存在するおかげで、わたしたちは研究するべき対象と目的を絶えず供給されているわけで」
智香子は、ゆっくりとした口調でいった。
「もしもその迷宮が最初から存在しなかったとしたら、この国も、いいや、世界全体も、今とはまるで違った姿をしていたはずだよね」
「その辺を深く考えるのは止めておこう」
黎が、提案をする。
「なんか、いくら考えても、明るい想像になりそうにない。
第一、不毛だ」
「現に、迷宮はもう何十年も、しっかりと存在するわけだしなあ」
佐治さんも、そういって黎の意見に賛同する。
「ただ、現在わたしたちが当然と思っているこの状況は、昔の人たちが迷宮を巡ってあれこれ議論を重ね、迷宮をどう扱うべきか、決めてきたからこうなっているわけで。
今のこの状況が、ごく自然にこうなった。
っていうわけではない。
そういうことは、深く認識しておいた方が、いいのかな?」
迷宮が突如として出現したことは、人間が選択したわけではなかった。
だが、その迷宮について、あれこれの取決めを作って徹底させ、迷宮が存在することを前提とした社会を形作ってきた人たちは、過去に存在していたわけで。
智香子たちは、そうした先人たちの成果の上に立って、活動することができている。
改めて、智香子は、そう認識する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます