第86話 付与術工房
迷宮内でエネミーを殺すと一定の確率でその死体がアイテムに変わる。
なぜ、とか、どのような機序でそのような事態が発生するのか、などの理屈は例によって解明されていない。
なにしろ迷宮内での出来事であるので、
「そういうものである」
という風に大方の関係者は飲み込んでいる。
決して、理解しているわけではないのだが。
そうした変化、ドロップ率はかなり極小である。
これは、智香子たちの少ない経験からも断言ができた。
アイテムがドロップされる確率は、おそらくは一パーセント以下だ。
百匹のエネミーを殺してようやくひとつのアイテムが得られるかどうか、という割合いである。
そのドロップ・アイテムも、大半はスクラップ同然の、ほとんど価値がない物であり、武器や道具など、なんらかの効果を持った、なにがしかの価値があるアイテムが出てくる割合いはさらに低かった。
探索者の多くはその「滅多には出ることはないドロップ・アイテム」を目当てに迷宮に入っているわけであり、つまりは営利目的で迷宮に入る限りは日常的に膨大なエネミーを殺戮し続けることが必要だった。
迷宮内では、通常の食物連鎖環境などがあるわけでもなかったので、エネミーをいくら殺しても新たなエネミーが出没するだけであり、絶滅する心配はない。
迷宮が出現したことにより、人類は無限に資源が算出する鉱山にも等しい「なにか」を手に入れたわけだが、その鉱山で働く探索者たちは有意の物資を手にするために膨大な数のエネミーを殺し、命を奪う必要があった。
探索者が迷宮に入るとは、つまりはそういうことなのだ。
理屈では理解していたのだけど。
と、智香子は思う。
シカ型を殺すことによって、その理屈をいよいよ身近な物として、実感してしまった気がする。
だからといってなにが変わるわけでもなく、いや、智香子たち一年生の心証としてはそれなりの変化があったはずだが、しかし外面的にはなにも変わらなかった。
智香子たちは相変わらず迷宮に入り、少しずつ、しかし着実に強くなっていく。
迷いも悩みも、その実感の前ではあまり強い影響力を持たなかった。
迷宮に入りエネミーを犠牲にしていけば、どんな探索者も累積効果により着実に強くなれるのだ。
これは智香子たちだけに限定された事情ではなく、探索者に共通して見られる変化であった。
探索者の中には、明らかにドロップする現実的な物資よりもこの累積効果による実感の方を目的として、迷宮に入る続けている人もいるそうで。
智香子たち松濤女子は身近に先輩方がいるため、多少強くなったとしてもそこまで喜ぶ気にはならなかったが、成人した探索者の中には、迷宮外の娑婆ではうまく動かない自分の体が、迷宮内では自在に動くようになる。
その実感を目当てにいつまでも迷宮内に入り浸る人も、少なくないと聞く。
まだ若く、というよりは幼く、いつか自分たちの体が老化して思うように動かなくなる。
そういうことがうまく想像できない智香子たちには、どうもうまく理解できない心理であったが。
とにかく、まだ中学に入学をしてからいくらも経過していない智香子たちの精神は柔軟であった。
エネミーを殺戮する存在としての探索者。
そうした者になろうとしている自分たちを見つめ、なにがしか納得をするところをそれぞれが見つけたらしい。
そして智香子たち一年生の精神の方はともかく、物質、ことに普段使用している装備品までいつまでもそのままというわけにはいかなかった。
使用頻度が高い武器、特に刃物類は日常的な手入れをしておかなければすぐに切れ味が落ちる物だし、手入れを怠らなくても定期的に専門家に見て貰らないと性能が格段に劣化した。
「ということで、一月か二月に一度は、武器をこちらに預けて点検して貰ってください」
迷宮活動管理委員の千景恵先輩が、そんな説明をしながら一年生たちにプリントを手渡していた。
「……付与術工房?」
そのプリントにざっと目を通した後、智香子は見慣れない単語に反応して小さく呟く。
工房、はともかく、付与術、とは一体なんだろうか?
と、智香子は疑問に思った。
文字列から類推すると、なんなくイメージできるような気もするのだが。
「ひょっとして、〈エンチャント〉のことかな?」
同じプリントに目を落としていた黎が、そんなことをいう。
「少し前までは店を構えている人もそれなりにいたそうだけど、今ではほとんど閉店しちゃったって聞いていたけど」
「少し前って?」
智香子は首を捻る。
「それと、〈エンチャント〉って?」
「ええと、十年くらい前まで、かな?」
黎は、考えつつ智香子に説明をしてくれた。
「〈エンチャント〉ってのはスキルの一種で、物体や人になんらかの効果を付与するスキル。
そのスキルを使って探索者相手に商売をしている人も少し前まではいたんだけど、今ではほとんど壊滅している、はず……だと、思う」
「その壊滅状態だった付与術の工房を、わざわざ研究して復活させてくれた人がいるの」
千景先輩がなぜだか誇らしげな口調で説明してくれた。
「ごく最近のことなので、事情通の三嗣さんが知らなくても無理はないけど。
エンチャントだけではなく日常的な武器の手入れなんかも一通りやってくれるから、なにかあったらここを頼るように」
ちなみに、プリントによると、松濤女子の子がその工房になにかの仕事を依頼すると、後でまとめて委員会の方に請求書が回って来るような取り決めがなされているらしい。
「この近くにお店を開いているわけじゃないんですね」
プリントに目を通しながら、智香子はいった。
「迷宮は三十三カ所もあるからね」
千景先輩がいう。
「一応工房は蒲田の方にあるそうけど、普段はワゴン車かなにかで迷宮を巡回しながら仕事を受付している」
探索者相手の仕事で、しかしほとんど寡占状態の業種となると、そういう営業形態がかえって合理的なのだろう。
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