Moment 2


Moment 2



 誰かが、何かを否定した。


 全てを諦めて、大切な物を捨て、理不尽に屈し、心臓が止まる瞬間までを惰性的に過ごしていくのが人生だと、それを受け入れることが成長なのだと、そう断言した。


「当然のことだが、俺はそれに納得しなかった。大人とやらになったとしても、おそらく変わらないだろう」


 無言でこちらを見つめてきたその子供に、彼は唇を薄く曲げてみせると、上体を前に傾けた。


「なんだあ? そんなに意外だったのか?」


「まあね。続けて」


 笑いながらそう言う子供に、彼は鼻を鳴らすと、椅子の前で足を組んだ。草原のざわめきが鼓膜を震わすのが、心地よい。頭上を覆い隠す青の天蓋は、何もかもを忘却して見入っていたいほどに美しかった。いつ来ても変わらない場所だと、彼は思った。


「お前の言う通り、ただ何となくで今を生きているのだとするなら、この世界があること、お前が今目の前にいることの説明がつかないだろうが」


 何度も、何度も、彼はこの場所に来た。それは、何かしらの迷いを常に抱えていたということの証左に他ならない。今の自分に対する後ろめたさ、憎たらしさがない限り、こうして自分自身に断罪されることは無いはずなのだから。


 太陽の光が草原に跳ね返されて緑色の筋となり、彼の網膜に突き刺さる。彼がそれに目を細めると、子供がクスクス笑いながら言った。


「なるほどね。君らしい考え方だ。何かと理由づけするのが大好きなんだね」


「お前には俺がそう見えるのか? 本当に? 俺は、俺という人間がわかんねえよ」


「そして、他人のこともわからない?」


「……そういう意味じゃねえんだ。そうやって、二択で聞かれても困るんだよ」


 あることが、正しいのか、正しくないのか。あるものが、間違いなのか、間違いでないのか。答えは状況によって変わってしまう。誰もが求める唯一無二の解答とやらは、境界線上で振り子のように揺れ動く。


 それでも人は、選択しなくてはならない。二択にすら見えない問題を二択で提示されてしまう以上、何かを飲み込み、何かを無視して、何かを捨て去り、どう行動するかを決定する。本当に大切なものは、その何かなのではないかという疑念と恐怖を抱きながら。


「いろんなことを考えた。いろいろなことを決めてきた。だが、それが正しかったかどうかなんてわかんねえよ。あの女を助けるという選択をしたことも含めて、俺は……」


 自分の選択に自信を持つことなど、できなかった。


 考えれば考えるほど泥沼だった。自分が皮肉屋だと他人は言うが、それは間違いだ。どっちつかずに、どっちも取れずに、ただ格好つけていただった。そこは、この子供が言った通りだ。


 彼は腕組みをしながら、そっと上体を背もたれに戻した。少し錆のついたパイプ椅子が、彼の体重を受け止めて、ぎしりとうめき声を上げた。


 子供は何も言わなかった。ただただ無言のまま、玩具のような椅子に座って、じっとこちらを見つめていた。ほどかれた足の上に置かれた手が、服に皺を寄せているのが見える。その子供が何を思い自分の話を聞いているのかも、彼には想像すらできなかった。


「俺が天才だと、お前はそう言ったな」


 この世に0.01%しかいない、超常の力を操る者たち。その中でも、同年代で考えれば圧倒的なまでの力を有し、それどころか座学ですら好成績を維持。そして今回、人生初の『実戦』でも、自らのポテンシャルを存分に生かした化け物。


 客観的に考えても、これはなかなかだと言えるだろう。誇るつもりなどさらさらないが、人が自分のことを天才だと呼びたくなる気持ちもわからなくはない。


「だが、俺は自分が天才だなんて、一度も思ったことはなかった」


 才能があったという意味では、天才と言えるのかもわからない。そもそも天才という言葉には、かなり適当な面が多い印象がある。だが少なくとも、自分が誰とも違う人間だと思うことはなかった。むしろ、そう決めつけられたらどんなに楽だったことか。


 特別な人間だという自覚はあった。だが、周りを異界の人間か何かのように扱うことは不可能だった。周りの人間はどこまでも人間でしかなく、自分もまた人間だという確信があった。些細な違いはあれど、自分は極めて一般的な悩みを抱えているのだろうと理解していた。


「周りが悪いのだと、逃げられればよかった。だが俺は、そう思う俺を許せなかった」


 自分が孤立している理由を、天才という言葉で片づけることに、そう、レッテルを張って終わらせてしまうことに、強い抵抗があった。だからこそ、考え続けた。その先にあるものが、出口のない迷宮だということに、気がつくことのないままに。


「わかんねえよ。お前らどうして、そう簡単に迷いを捨てられるんだよ」


 ぐちぐちと悩みを呟き、優柔不断な人間は見ていて鬱陶しい? くそくらえだ。わかりやすく、強い言葉を並べた英雄のほとんどが独裁者になったことなど、歴史が証明しているだろう。


 英雄の姿が見たいなら、その演技をしている人間の下で、夢だけを見ていればいい。放っておいてくれ。正しさとやらを突きつけて、それに縛り付けないでほしい。


「なんにせよ……今回の選択の結果は、散々だったな」



  ※  ※  ※  ※  ※



 落ちていく。どこまでも、落ちていく。


 重力という見えざる糸で、空から引きずり降ろされていく。思わず伸ばしたその手は、何も掴むことができずに空を切った。


 自分の体とノゾムとをつなぎ合わせていたパーカーが、あっさりと解けてしまう。もともと最低限の役割しか果たしていなかったからだろう。血まみれの紺の布地は、空気抵抗で上空へ持っていかれ、あっという間に彼の視界から消えた。


 御影の上に乗る形で安心しきっていたのか、ノゾムが背中から滑り落ち、体に回されていた腕が解けてしまう。姿勢の制御など到底望めない状況下で、彼は反射的に離れようとするその手を掴み、何とか体を反転させて彼女の方へと向き直った。


 彼の焦燥を浮かべた黒の瞳と、彼女の戸惑いに満ちた茶の瞳が交錯した。


 強い後悔の念が、彼の胸をバラバラに切り裂いていった。自分は彼女に対して、なんということをしてしまったのか。一度希望を抱かせておきながら、絶望のどん底へと叩き落とすなど、何もわからないまま殺されるよりもはるかに残酷だった。


 彼女は小さなまつ毛を揺らしながら、何度か瞬きを繰り返すと、やがて何かを察したかのように、唇を横に結んだ。だが彼女は、そのまなじりから夜空に浮かぶ星々よりも美しい水滴を零しつつ、目の前にいる誰かをあやそうとするかのように、出来損ないの笑顔を作ろうとした。


 言葉が、出てこない。言葉になんて、できやしない。


 彼女の体を、強く抱き寄せる。何かを取り繕わなくて済むように、彼女の頭を自らの胸に押し付けて、その表情を隠す。


 それは、何度も繰り返してきた逃避かもしれないと、ふと思った。


 そして彼は静かに、その瞼を閉じていく。



  ※  ※  ※  ※  ※



 また、この場所に戻ってきた。


 青の空と、緑の草原しかない場所で、彼はただ立ち尽くしていた。


「君にとって、生きることに意味はなかったのかな?」


 後ろから、あの子供の声が聞こえてくる。彼は両手を横に軽く広げると、肩をすくめて、おどけた口調で言った。


「さあな。わかんねえよ」


 くだらない問いかけだった。いかにも、迷える子羊が抱きそうな疑問だった。その手の悩みを抱えた人間は、今なお精神病院の椅子を埋め尽くしている。


「ただ、一つ言えることがある」


 彼はジーンズのポケットに両手を入れると、地平線のその先にある何かを夢想しながら、背後に立つ子供に向かって淡々と言った。


「生きることに意味を見いだせずに生きている人間は、その意味を探す行為そのものが、生きる意味なんだろうよ」


「じゃあ、夢はどうだろう?」


「……夢、ね。その意味の究極だな。わかんねえと言ってるだろうが」


「嘘だね」


「……ああ、そうだな。そうかも、しれないな」


 夢と生きる意味がイコールだとは限らない。今生きているほとんどの人間が、何らかの夢を諦め、それでもなお生きていることは想像に難くない。


 何でもいい。子供のころ、ふとした瞬間に思ったこと。馬鹿らしくとも、荒唐無稽でも構わない。確かにその心を揺らしたものが、一つくらいはあったかもわからない。


「あの草原で……この草原で、俺は夢を見た」


 家の近くにあった公園だったか。近所に住んでいたあの少女と、小さい頃はよく遊びに行っていたはずだ。そこの原っぱで横になり、空を見上げて、少年は夢を見た。


 風になりたい。あの空を、翔けていきたい。


 なにに縛られることも、繋がれることもなく。誰よりも、自由に。


「そして俺は、超能力者となった」


 メディエイターに目をつけられ、選ばれし者として祭り上げられ、他人の可能性を奪い、操る力が自分の物なのだと浮かれて、無邪気にはしゃいでいた。


「馬鹿だよな。力を手にするということは、束縛されるのと同義だ。そもそも……」


 そもそもそれは、偽物だった。


「夢見た結末がこれだっていうんなら……何とも、皮肉な話だよな」


 彼はそう呟くと、足元へと目を落とした。


 この世界は、走馬燈にも似た、刹那になされた思考の一形態にすぎない。もう間もなく、自分たちはアスファルトの上に叩き付けられて、その生涯を終えるのだろう。


 くだらないが、幕引きとしては悪くないかもしれない。布団の上で息絶えるのに比べれば、なかなか派手な終わり方だ。思ったよりも早い終幕だったが。


 そんなことを考えながら、彼は薄く唇を曲げて――。


「――ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、オイ」


 ……声が聞こえた。後ろからだ。


 ゆっくりと、振り返る。何かを期待し、同時に恐れながら、彼はその人物の姿を目に焼き付ける。


 御影奏多が、そこにいた。


 いつも通りに、不敵な笑みを浮かべ、傲岸不遜に胸を張り。御影奏多という人間は、皮肉気な口調で、呆然と佇む彼に言い放つ。


「らしくねえなあ。お前、本当に俺かよ。夢見た結末? 馬鹿かお前は」


 紺色のパーカーを翻し、御影は大股でこちらに近づいてくると、彼の胸元を引っ掴んで、つるし上げるようにしながら睨みつけてきた。


「超常の力を使って。風を操って。物理的に空を飛べば、それで終わりか?」


 御影は大きく舌打ちをすると、情けない面で目を見開くことしかできない彼に、どうしようもなく無様な自分に対して、身の内に住む獣に急き立てられるままに怒鳴りつけた。


「お前の……」


 そうだ。


 あの日あのときに抱いた、この思いは。


「俺の夢は、まだ始まってもいねえだろうが!」



  ※  ※  ※  ※  ※



 咆哮が、炸裂した。


 目を見開き、世界を凝視し、感情そのものを吐き出そうとするかのように、叫び続ける。


 眼下。普段、煌びやかに光り輝く中央エリアの、本当の姿がそこにある。空を埋め尽くさんばかりだったホログラムによる広告は、一つも見えない。建物でさえも、細かな煤や傷を隠していたのか、急にみすぼらしくなったのが街灯の光だけで見て取れる。


 これが、ノゾムの見る世界。そして、御影奏多が見てこなかった世界だ。


 世界を治めしメディエイターと、AGEとやらに、最大級の感謝を。これでやっと、ノゾムの隣に立つことができた。彼女の世界を、同じ場所から見ることに成功した。


 偉大なる神への賛辞は、もう終わりだ。ならばあとは、反逆するだけのこと。


 超能力者は本来能力を使えない。なぜなら、元々持っている精神粒子だけでは、異常を引き起こすエネルギーとして不十分だからだ。だからこそ、メディエイターに外部の精神粒子を与えられることによって、能力を操れるようになる。


 だが、それだけでは説明しきれない部分がある。能力を行使できる範囲に、個人差があることだ。操れる精神粒子の量が超能力者の支配領域の広さに比例するのだとするならば、御影が他の超能力者よりも広い範囲で能力を使えることはおかしい。


 ここで、もし仮に、御影が与えられた以上の精神粒子を操れていたのだとしたら? 自身の中に存在するもののみならず、外部のものまで操作していたとしたらどうだ?


 エネルギーを供給するのはメディエイターだが、実際に力を操るのは超能力者自身だ。ならばそのエネルギーを自分で用意してしまえば、問題なく能力を使えるということになるのではないだろうか。そうなれば、世界への干渉力がノゾムの能力阻害を上回ることだってあり得る。


 世界のすべてに否定されたというのなら、逆にこちらからその世界を否定してはならないと、誰が決めた?


 さあ。奇跡を起こすための言い訳は、もう済んだ。


 ならば叫べ。その今にも爆発せんばかりの思いを、ぶつけてしまえ。


 どこまでも広い、あの空へと――。




「――飛っべぇぇええッ!」






  ※  ※  ※  ※  



 ……そして。

 その光景を、前にして。






 治安維持隊元帥、ヴィクトリア・レーガンは、タワー屋上で声もなく立ち尽くした。

 彼女の隣では、ザン・アッディーンが、彼にしては珍しく驚愕の表情となっていた。






 超越者、マイケル・スワロウは、呆けた顔で空を見上げていた。

 同じく超越者である八鳥愛璃は、頬を少し赤く染めて、じっとそれを見つめていた。

 学生警備隊長、ジミー・ディランは、思わず火のついた煙草を取り落とし。

 レイフ・クリケットは、彫像のように動かないまま、無言でその光を浴びていた。






 ある通りで、ティモ・ルーベンスは興奮を隠そうともせずに拳を振り上げていた。

 彼の周りにいた部下たちもまた、わけのわからないことを言いながら騒いでいた。






 タワー最上階にいたアーペリ中将は、自らの信仰する神の名を口にした。

 ニーラント少将は、防衛システムが解放されたことにも気づかず、床に座り込んでいた。






 とある倉庫で、銀髪の女が微笑みながらタワーに背を向けた。

 何とか意識を回復したエボニー・アレインは、あまりのことに自分の正気を疑った。






 とある超越者は、ビルの窓からそれを目にし。

 ヨコハマにいた超越者は、中継でその様子を確認し。

 研究職につくとある超越者は、国立科学研究センターの機器で観測を開始し。

 八人目、最後の超越者は、ある大学病院の敷地から、主要ブロックの空を眺めていた。






 公理議事堂敷地内。『聖域』にて。

 その男は、何かを歓迎するかのように、唇の端を持ち上げた。






 西暦二三九九年四月一日。能力世界の誕生から、およそ三百年の月日が経過していたその日、中央エリアにいた人間の全てが、御影奏多という個人が創りだした世界を目撃した。


 ある者は驚き、ある者は恐れ、またある者は畏敬の念を覚えた。それぞれが、それぞれの思いを胸に、その光景を目に焼き付けていた。


 だが、もしかしたら。御影の胸から顔を離して、彼の肩越しにそれを目撃した少女の呟きが、全ての人間の気持ちを代弁していたかもしれない。


「……綺麗」



  ※  ※  ※  ※  ※



 夜の街に。暗闇を走り続けた人に。暗黒に閉ざされた世界に。存在しうる、全てのものに。


 金色の雪が、舞い落ちる。


 幾つもの、幾千もの光の粒子が出現し、空中を漂い、流れ、他と合わさり、光の筋となって辺り一帯を駆け巡る。世界が、あたかも黄金色をした天の川に呑み込まれてしまったかのような様相になっていく。


 その光は、星屑が瞬くように、消えては再出現するのを繰り返していた。


 大気が、空間そのものが、うねりだす。少年と少女のために、世界のすべてが、彼らの味方をしていく。金色の光芒をまき散らしながら、ノゾムの体を抱きしめ続ける御影奏多の体を柔らかく支えて、ゆっくりと、ゆっくりと、『聖域』たる公理議事堂の敷地へと下ろしていく。


 気がついたときには、御影の体は公理議事堂の正門の内側に横たわっていた。ノゾムがその傍らにしゃがみこみ、二人を守るようにして、一人の男が門と彼らの間にいるのが見えた。


「よくやった、御影君」


 公理評議会の人間であり、御影を騙し、かつ助けた男、ルークは、御影に背を向けたまま、震える声でその言葉を口にした。


「君が、たった一人の少女のために起こした『奇跡』は。世界の在り方を、大きく変える」


 議事堂正面入り口のバリケードが、どけられていく。その隙間から議事堂敷地内へと侵入しようとした治安維持隊隊員たちは、御影たちの前に立ちふさがる白づくめの男の姿を目撃して、皆一様にその足を止めた。


「あとは任せたまえ。ここから先は、私の時間だ」


 ルークはそう言って一度だけ振り向き、御影たちに微笑みかけると、大きく息を吸って、彼を見つめる治安維持隊に向かい叫んだ。


「金堂真の娘、御影奏多の両名は、我々公理評議会が保護した! 議会政治軍隊不可侵の原則に従い、治安維持隊には速やかな撤退を要求する!」


 ルークの叫びが、わんわんと頭の中で木霊する。最後に、自分の体に置かれていた少女の手をそっと握って、彼の意識は安堵のため息とともに三度目の暗闇へと吸い込まれていった。


 四月一日、午後十一時三十一分。御影奏多、『聖域』への到達に成功。


 この瞬間、アウタージェイルが残した負の遺産を巡り、個人が世界へ挑んだ戦いは、支配する側である治安維持隊の全面的な敗北という形で幕を下ろした。


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