第三章 暗転 9-5
9-5
ノゾムの甲高い悲鳴が、御影のうなじのあたりを震わしている。御影は混乱状態に陥りそうになる思考を何とか理性でコントロールし、超能力者専用の回路を脳内へと刻んでいった。
普段は体の内部にとどまっている意識を、外部へと拡張する。どこまでも広く、広く。それでいて、自分という存在を忘れないようにしながら。主要ブロックのみならず、中央エリア上空全域に存在する空気分子の運動を把握していく。
脳の奥底に釘を打ち込まれているかのような鈍痛。おそらくは、今必死に御影の背中にしがみつく少女の存在によるもの。たとえ見えていなくとも、彼女の手が加えられていないオリジナルの思考は、超能力者の起こす異常を真っ向から否定してくる。
それに抗い、ただ前へと。天上の神が創りだした世界の在り方を、人工の神に与えられた力をもって書き換えていく。たとえメディエイターのサポートがあるのだとしても、実際に力を操るのは超能力者自身だ。かつてないほど難度の高い試みに、思考回路が全て焼き尽くされたかのように、視界が真っ白に染め上げられていく。
ノゾムの能力阻害は、視覚が重要な役割を果たしていた。だが、世界を理解するうえで重要なのはそれだけではない。聴覚。触覚。嗅覚。味覚。全ての感覚を総動員したうえで、気体分子一つ一つの情報を頭に叩き込み、最善手を導き出す。
風を見つけ、風を集め、また新たな風を生み出す。
空の全てを、自身の支配下におさめ、操作する。幾筋もの強風を生み出し、御影たちの体を包みこみ、下から突き上げる風で体を支える。
重力に逆らわず、寄り添うように。下に向かう運動を、ゆっくりと捻じ曲げていって、水平方向の移動へ。さらに、上へと。
気がついたときには、御影の体はエンパイア・スカイタワーよりもさらに高い場所を浮遊していた。
風の音が聞こえる。風の声が聞こえる。全身を柔らかに撫でる、風の歌が聞こえてくる。
何もかもが、心地よい。
何に縛られることもなく、彼は自由に空を舞っていた。
笑い声が聞こえた。それがあんまりにも楽しげで、綺麗なものだったから、自分の声だと気がつくのにしばらくかかった。何の屈託もなく、あまりにも自然に、腹の底をくすぐられるようにして笑ったのはいつぶりだろうと、彼はぼんやりと考えた。
「……え? ……嘘、でしょ?」
背中で、少女がもぞりと身動きするのがわかる。彼女は、御影の上体に回されていた腕の力を緩めると、信じられないといった口調で呟いた。
「本当に? 本当に空を飛んでいるの?」
「ああ! 本当さ!」
御影奏多はからからと笑いながら、背中にのせた少女に向かい叫んだ。
「目え開けたりするなよ! 開けたい気持ちはわかるが、それをやられたら真っ逆さまだ!」
極度の興奮状態にあるためか、ノゾムがいることにより受ける精神的ダメージは思いの他少なかったが、それでも本当にぎりぎりのところで踏みとどまっているのがよくわかる。はっきり言って、こうして彼女と共に空にいるのは、半ば奇跡に近かった。
夜の街の輝きが、はるか下に見える。御影以外は誰も到達することのできない、絶対不可侵の領域。今このときにおいては、御影奏多を束縛するものは何もない。
「これだよ。この景色が、欲しかったんだよ」
ぽつり、ぽつりと。御影奏多は、誰に聞かせるまでもなく、心臓を強く脈打たせ、肺を大きく膨らます、泣きたくなるほどに懐かしい衝動に駆られるままに呟いていた。
「この空を求めていた。ただ、それだけだったんだ」
幾千もの、青く輝く光の粒をまき散らして。一本の線だったはずが、合わさり円となった地平線を眼下に置きながら、御影奏多は空を舞い続ける。
ノゾムが御影を抱く力が、また少し強くなった。彼女は顔を御影の背中に押し付けて、熱い息を吹きかけながら、少しくぐもった声で言った。
「ずるい。ずるいよ」
その言葉は、一瞬だけ御影の耳にとどまったが、すぐに吹き寄せる風に飛ばされ、どこか遠くの方へと消えてしまった。何か熱い物が、服を濡らしていくのがわかる。
「見たかった。君の世界を、同じ場所から見たかった」
「……」
それは、決して叶うことのない願いだった。
御影奏多は、メディエイターに祝福された人間兵器で。ノゾムは、メディエイターを憎悪する者に造られた、人間兵器を潰すための人間兵器。
彼は一般人が持ちえたはずの力を奪い、超能力者として君臨し、彼女は一般人が持ちえたはずの権利すら与えられることなく、厄介者として扱われてきた。
二人は文字通り、住む世界が違う。だからこそ、御影奏多には彼女を救う資格が無かった。たとえその隣に行こうとしても、二人の間には破ることのできない不可視の壁が存在することは、最初から直感していたことだった。
生まれた家と、生活した場所。たったそれだけで、人生は大きく変わる。
「じゃあ、見せてやるよ」
「……え?」
「俺がお前に見せてやる。俺が見ているこの景色を、いつかその目に焼き付けてやる」
もちろん叶うことのない約束なのだろう。こんなことを言っても、何の意味もないことは、御影自身痛いほどわかっていた。
視点は常に一つしかない。自分を起点にしか、物事を観測できない。だから、他人を観察することができても、他人になることができない。
そもそも、会話には意味がない。
何も変えることなど、できやしない。
それでも、今、このときだけは。夢を語っても、いいじゃないか。
この空は、多くの人間たちが恋い焦がれた、夢の領域なのだから。
「……嘘つき」
「ああ、嘘だ」
「でも、そう言ってくれただけで嬉しい」
「ハッ。ホント、無欲な奴だなあ、オイ」
「ありがとう」
「……ああ?」
「傍にいてくれて、ありがとう」
こういうときに、なんと返したらいいのだろうか。それがわかれば、こんなにも回り道に寄り道だらけの人生を歩んでいないかもわからないが。
とりあえずいつも通りに、皮肉めいたことを言ってごまかそうとしたところで、御影はボクシに与えられたネックレスが首元で震えているのを知覚した。
彼はため息を吐くと、端末に指で触れて、目の前にホログラムウィンドウを出現させた。案の定というべきか、表示された番号を選択して映し出されたのは、例の白づくめをした公理評議会の人間であるルークだった。
「おいおい。こちとら優雅にフライトを楽しんでたっつうのに、なんで無粋な……」
『御影君! 今すぐ降りてくるんだ! 議事堂以外の場所でも、どこでもいい!』
ルークの必死さを感じさせる叫びに、御影はポカンと口を開けてしまった。
一体、何事なのか。この位置にいる御影を攻撃することは、さすがの超越者でも不可能なはずだ。あとは、街の上を悠々と旋回しながら、『聖域』である公理議事堂を目指す。それだけでいいはずだった。
議事堂以外の場所に降り立ってしまっては、全てが水の泡だ。それをしてしまっては、自分たちはまたもや、治安維持隊の全軍に追い回されることになる。
「どういうことだ? ここはどこよりも安全なはずだろう?」
『AGEの連中が、この件に介入してきた!』
その単語を耳にした途端、御影は心臓を急速冷凍されたかのような悪寒を覚えた。
公理評議会はもちろん、治安維持隊よりもさらに大きな権力を持つ、超法的組織。世界を保つことだけを目標に掲げた、能力世界の影の支配者。数十年に一度しか動かないというAGEが表に出てくるほどに、彼女の存在はこの世界にとって脅威だというのか?
『止めようとしたが間に合わなかった! 連中、私に何も伝えずにことを進めていた!』
「何かやばいことになってるってのはわかった。それで? 一体何がどうなった?」
『連中は、君を反社会分子とし……く奪して………………能力を………………………………』
「ルーク? おい、ルーク!」
ウィンドウの映像が、ノイズと共に白い砂嵐に塗りつぶされていく。やがて、ルークの声が完全に聞こえなくなったところで、ホログラムウィンドウがまっ赤に染め上げられた。
目に痛いほどにけばけばしい赤を背景に、『ALERT』の五文字が表示される。何が起こっているのか理解できずに、呆然とするしかない御影に対し、ホログラムウィンドウは明らかに合成音だとわかる、妙にとげとげしく無機質な女性の声で告げた。
『警告。警告。第二級の警戒レベル。対象アカウントナンバー、1236751826E』
情報が無い中でも、自分の想像を超えた何かが起きようとしていることはわかる。御影は周囲へと意識を向けると、気流を操り、主要ブロックの南西に位置する公理議事堂を目指して体を加速させていった。
『世界の形態に対して、反抗の意志あり。繰り返す。世界の形態に対して、反抗の意志あり』
そんな意志を持った覚えはないと怒鳴りつけたいところだったが、相手は機械だ。抗弁したところで、何の意味もない。
そこまで考えたところで、御影奏多は恐るべき予測に突き当り、大きく目を見開いた。
もしや、自分が今相対しているものとは、この世を支配する神、メディエイターそのものなのではないだろうか?
『能力世界を保つ活動を、阻害する恐れあり。活動を、阻害する恐れあり。ゆえに……』
なぜ、どうして、という疑問を解決する間もなく。機械仕掛けの神は、ただ一つの結論を御影奏多へと突きつけた。
『アカウントナンバー、及び、Eランクのアクセス権を剥奪。これよりナンバー1236751826Eは死亡したものとみなし、提供していたすべてのサービスを停止する』
「…………なッ!?」
『システム起動まで、残り十秒』
ところどころ意味の分からない部分はあったが、大筋は把握することができた。
エイジイメイジアに住むすべての人間は、メディエイターによる援助を受けている。ホログラムを作り出すのも、活動できる領域を制限するのも、全てがその神とやらの仕業だ。
そして超能力者は、更なる恩恵を受けている。超能力という異常を引き起こすうえで必要な精神粒子が外部からかき集められ、超能力者へと供給されているのだ。
その全てを奪うと、メディエイターは宣言した。
すなわち。あと十秒もしないうちに、御影奏多は『死亡』し、全ての力を失う。
ただの人間に、戻される。
喉から迸るのは、現実の否定か、力を失うことへの恐怖か、はたまた理不尽に対する憤怒か。あるいは、その全てか。御影奏多は獣のような咆哮を上げて、自分の所有する力で空を翔る。
だんだんと、掌から水が零れ落ちていくような感触。ゆっくりと、しかし確実に、自分の中から何か大切な物が抜き取られていくのがわかる。あれほどこちらに親身になっていた風がてんでばらばらに吹き出して、御影に背を向けてしまう。
こうして、あっという間にその十秒が過ぎ去り。
超常の力を無くした御影奏多は、なすすべもなく地上へと落下していった。
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