第二章 レール上をひた走り 1-1


1-1



 四月一日の朝、エボニー・アレインは、自分の笑い声を聞いて目を覚ますという、まだまだ短い人生においてはかなり珍しい分類に入る体験をした。


 しばらくの間、ベッドの上で特に理由もなくにやけ続けた後に、エボニーはふと我に返ると、上半身を起こし、ぼんやりとした口調で呟いた。


「…………なあに、これ?」


 なぜ自分が笑っていたのかさっぱりわからない。何かおかしな夢を見て、その夢の中での行動が現実にも反映されてしまったようだが、内容はどうしても思い出すことができなかった。


 疑似的とはいえ、一度自分が体験したはずのことを忘れてしまうのは本当に気持ちが悪い。なんだか、胸の奥に何かがつっかえてしまったかのような、そんな違和感を覚える。現実の記憶を失ってしまった人たちも、もしかしたらこんな気分なのかもしれなかった。


 時計を見ると、時刻はもうすでに九時半近くになってしまっていた。今日は珍しく寝坊してしまったらしい。明らかに昨日の夜勤のせいだろう。エボニーは心の中でどっかの地味な隊長をサンドバックにして憂さを晴らしつつ、キッチンへと歩いて行った。


 学生寮といえば一般的には狭い印象があるものだが、特別能力育成第一高等学校の寮はそこらのアパートよりもはるかに部屋が広く、しかも数が多い。無駄に。超能力者優遇制度だか何だか知らないが、彼女にしてみれば掃除の手間が増えて面倒なだけだった。二階建ての豪邸に住んでいるどっかの誰かさんに比べればまだましだったが。


 トイレとバスルームは別になっているし、リビングも和室もあり、ちょっとした高級マンションの一部屋といった印象を受ける。もっとも、これでも質素な方で、望めばさらに豪奢な場所に住むことも可能ではあるのだが、今で十二分に満足しているのでそちらに移る気はなかった。だいたい、住む場所の豪華さと生徒の品位とが反比例しているため、たとえ金を積まれたって引っ越しするのは御免だ。


 エボニーは大あくびをしながら、台所のシンクでヤカンに水道水をぶち込み、ついでにその場で顔を洗うと、タオルで顔を拭うこともせずにヤカンをIHヒーターの上へと移動させてスイッチを入れた。お湯が沸くまでの間に、業務用スーパーで大量購入したインスタントコーヒーの粉をカップに入れ、ヒーターの横に置いておいた。


「眠い。怠い。疲れがとれてない。これも全部、あの煙草大好き地味野郎のせいだ」


 ぶつぶつと怨嗟の言葉を吐き散らしながら、彼女はバスルーム前の洗面所へと移動すると、昨日からタオル掛けに放置されたままのタオルで適当に顔を拭った。目をこすりながら顔を上げたところで、鏡に映った自分の姿が見えて、エボニーは思わずうめき声を上げた。


「うわ。ひっど」


 目の下にはくまがくっきりと浮き出ていて、髪は寝癖でぼさぼさ。昨日半分意識の飛んだ状態で着替えたからか、パジャマもボタンを掛け違えているし、とても人様には見せられないような惨憺たる有様だった。


 とりあえず歯でも磨こうかと歯ブラシをくわえたところで、お湯が沸いたとヤカンが泣き喚くのが聞こえ、彼女は御影がよくやるように髪の毛を右手でくしゃくしゃとかき回しながら台所へと戻った。近くにあったカップに歯ブラシを放り込み、あくびをしながらお湯を注ぐ。



 結果として、歯ブラシのコーヒー漬けが完成した。


 しばらくの間、彼女はヤカンを持ったままその場に凍り付いた。窓の外から、スズメらしき鳴き声が聞こえていた。


「…………なあに、これ?」


 もはや、笑うしかなかった。


 なんだかもうやけくそになって、エボニーはリビングのソファに体を投げ出すようにして腰を下ろすと、コップの中身を口の中に流し込んだ。コーヒーの苦みと歯磨き粉のミントの香りが同時に襲い掛かってきて、エボニーは顔をしかめてコップをソファ前のテーブルに置いた。


 しばらくの間、彼女はソファの上でぼんやりと窓の外を眺めていた。が、突然携帯端末のバイブ音が聞こえてきて、エボニーは思わずその場で飛び上がってしまった。


 見ると、先ほどテーブルに乗せたカップ歯ブラシ入りの横で、例の十字のペンダントが震えているのが見えた。どうも、昨日の夜にここに放置して寝てしまったらしい。エボニーはため息を吐くと、ペンダントに手を触れ、出現したホログラムのアイコンを押した。


 押した直後に、それがテレビ電話の呼び出しであったことに気がついた。


「ちょ!?」


 今の自分の状態は、とても他人に見せられるものではない。彼女はとっさにソファの上にあったペンギンのクッションを引っ掴むと、それで顔を隠した。


 しばらくの間、沈黙が続いていた。やがて、エボニーがその静寂に耐え切れずに、クッションの裏から顔を出すと、ホログラムウィンドウの中でこちらのことを無表情に見つめている女性と目が合った。


「……ソニア……さん?」


『ええ、そうですけど。一体全体何事ですか、これは』


「いや、あのね。この格好は、昨日夜遅くまでジミーの馬鹿にこき使われて、それで……」


『まさか、歯ブラシにそんな使い方があるとは。知りませんでした』


「あ、そっち? そっちね。アハ、アハハハ!」


『…………』


 無言で見つめられて、エボニーは再びクッションに顔を埋めた。


「……このことは忘れて。お願いだから」


『ええ、そうですね。忘れることにしましょう。では、私は今からSNSで少しやることがあるので、これで……』


「拡散する気まんまんじゃない! やめなさい! というかやめて! お願いします!」


『冗談ですよ』


「あんたが言うと冗談に聞こえないのよ、馬鹿」


 終始真顔のままだったソニアに、エボニーは深々とため息を吐くと、反射的にカップを手に取って口元まで運びかけ、視界に歯ブラシの柄が見えて無言でテーブルに戻した。



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