プロローグ 3
3
突然、エボニーが首に下げた十字のペンダントが小刻みに振動しだした。
「うわお、なんかエロい」とわけのわからないことを言う上司をぶん殴りたいという衝動をおさえつつ、エボニーはジミーに一礼すると、少し離れた建物の陰へと移動した。そこには今時は珍しい煙草の自販機が置いてあり、エボニーは自販機の側面によりかかると、胸元で震えるペンダントに手を触れた。
その瞬間、彼女の目の高さに、半透明な長方形の板のようなものが出現した。薄い、青の色ガラスのようにも見えるそれは、暗闇の中で淡い光を放っている。
ホログラムウィンドウ。一般人にもそなわったホログラム生成能力を応用した物の一つだ。
ホログラム生成能力とは、三百年近く前に超能力と同時に発見されたものだ。機械の助けがあればの話だが、二三九九年現在、人は自らがイメージしたものを宙に投影することが可能となっている。
もっとも、何かを正確にイメージするのはかなり高難度なことで、外部のアシストがなければホログラムなんて作りだせない。
コンピューターにホログラムウィンドウを投影する機能を付け加えたものは、今までのスクリーンをホログラムで代用することによって本体の形状を一つに決める意味がなくなり、腕時計はもちろん、眼鏡、指輪など様々な形態をとっている。エボニーの端末は、この十字架のペンダントだった。
エボニーはウィンドウに表示された名前を見て、思わず顔をしかめてしまった。
奴が自分から連絡してくることなんて、いつもならまずありえない。だとすると、何か厄介ごとに巻き込まれているのだと考えるのが妥当だろう。
「この忙しいときに」
一瞬このまま端末の電源を切ってやろうかと思ったが、まず間違いなく後で面倒くさいことになるのでやめておいた。エボニーはため息を吐くと、ウィンドウの真ん中に表示された通話アイコンを人差し指で押した。
ウィンドウが通信相手を映し出した。その人物はエボニーを見ると、憎たらしいほどにこやかに話しかけてきた。
『よう、エリートさん。相変わらずエリートだねえ』
「なによ、その変な挨拶。やめてよね」
エボニーは頭に鳥のフンでも落とされたかのようなけったいな顔つきをして、目の前のいけすかない男のことを睨みつけた。
「なんの用よ、不登校。私今忙しいんだけど」
『そんな呼び方はないだろう。俺にはちゃんと、御影奏多っていう名前があるんだからよ』
「どの口がそれを言うの極みね」
『あいにくと俺は、お前みたいにいい子ちゃんじゃないんでね』
御影奏多。エボニーと同じ第一高校の四年生で、史上最高の優等生にして、最悪の問題児。
そんな奴が通信の相手である今、このまま話を続ければ面倒ごとに巻き込まれることは折り紙つきだ。だがここで一方的に通信を切るには、エボニーはお人好しすぎた。
「さっさと要件を言いなさい。今仕事中なの」
『そうなのか。学生警備ってのは大変だなあ、オイ。じゃ、手短に済ますとするか』
御影はそこで急に真面目な顔つきになると、エボニーのことをまっすぐに見つめて言った。
『たった今、ヤンキーに攫われそうになっていた幸薄い少女を助けたんだが、これからどうすればいいと思う?』
「……」
通信を切った。
通信を切った後も、精神的ショックでしばらく身動きできなかった。
「…………なあに、これ?」
何やら攫うだとか、ヤンキーだとか、幸薄い少女だとか、そんな日常を遥かに超越した単語が出てきていたような気がする。
「いや、気のせい。気のせいよ」
エボニーは首を勢いよく振ると、額に右掌を押し付けた。
そうだ。ありえない。なるほど確かに、学生警備たる自分はそういう事件に出くわすことがないこともなかったが、御影は曲がりなりにもただの一般人だ。普通の生徒にしては、ほぼ不登校なくせにテストで学年首位の座をかっさらったりするなど、なかなかに尖ったことをしていらっしゃるが、しかしそれはそれ。これはこれだ。
大体あいつは、人を助けるほど殊勝な奴じゃない。雨に打たれた子犬を見つけても、平気で見なかったふりができるような人間だ。どうしてそんなことをできるのかわからない。犬かわいいのに。いや、もしかしたら御影も助けるかもしれないけど。
「……って、今はそんなことはどうでもいい!」
思わず叫んでしまった直後に、ペンダントが再び振動した。半ば無意識で通信に応じると、画面に至極まじめな顔をした御影の姿が再び映し出された。
『たった今、ヤンキーに攫われそうになっていた幸薄い少女を助けたんだが、これからどうすればいいと思う?』
「そっくりそのままリピートするな!」
彼女は肩で大きく息をしながら、御影のことを睨みつけた。
「冗談に付き合っている暇はないって言っているでしょうが」
『冗談じゃないんだなあ、これが。ヤンキー共がカツアゲしてきて、んでもってそいつらがとある少女に手ひどい真似をしようとしてるなんて状況にあっちゃあ、血も涙もちゃんとある俺としては、見て見ぬふりをするのは忍びないってものでねえ』
「正論なのに、アンタが言うとまったく説得力がないわね」
エボニーは急に疲れを感じて、その場に座り込みそうになった。御影との会話は、いつもこうだ。
「まあ、仮にアンタの言っていることが本当だとして……」
『仮に?』
「……本当だとして」
エボニーは怒りに頬が痙攣しそうになるのを、必死にこらえながら続けた。
「まず私は、忙しくて手が離せない」
『はあ? おいおい、正義の味方さん。今ここにお困りになられた少女様がいらっしゃるのに、それを無視するっていうのかよ』
「言ったでしょ。忙しいの。それに、アンタも一応第一高校生徒なんだから、最後まで面倒を見てあげなさい」
『まいったな。ったく、本当に面倒なことになってきやがった』
御影は舌打ちをすると、右手でわしゃわしゃと髪をかき回した。
『学生警備様に頼れないとなると……俺が病院に連れていくしかないか。気絶しているようでね。目立った外傷はないが、まあ病院に預ける理由としては十分だろう』
「……ああー」
『何か問題なのか?』
「いや、その、病院に預けるってのも無理かもしれない。結構規模の大きな火事があってね」
『火事。……ちょっと待て』
画面の中で御影は新たなウィンドウを出現させた。エボニーのウィンドウの右上に、その内容が表示される。どうやらネットのニュースサイトを調べているようだった。
『これか。トウキョウ精神医療研究センターが火災、と。……全焼? こんなでかい建物が?』
「で、その火災自体も問題なんだけど、意識不明の人がかなりでちゃっててね。きっと深夜も開いているような病院はどこもパンク状態よ。少なくとも、急を要さないなら、新たな意識不明の患者の対応をする余裕はないと思うわ」
『ったく。肝心なときに役にたたねえな、病院様は。国が超能力者優遇政策に予算を振りすぎるから、こういうことになる』
「仮にも超能力者であるアンタが、よくもまあそんなことをぬけぬけと言えるわね」
彼女はため息を吐くと、続けて言った。
「私みたいな末端の人間まで現場の警備に駆り出されているくらいだから、治安維持隊の方も面倒見切れないと思うわよ。となると、アンタのやることは決まっていると思うけど」
『……俺に何をしろと?』
「自分で考えなさい。本当にその少女がいるならね」
『おい、待て。お前、まさか今までの話が嘘だとでも――』
また通信を切断した。
正直言って、御影の戯言に付き合っている暇なんて今はない。仮に本当だとしても、普段の行いが悪いのだから仕方がないだろうと半ばやけくそに考えながら、エボニーは隊長の待つ場所へと戻っていった。
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