ミラーリング

藍沢真啓

終わりへの始まり

「もう一度、症状をお話ください」

「ですから、数年前から時々ではありますが、記憶が途切れてしまうんです」


 緊張を和らげる為だろう。アイボリーの壁紙に、木製のテーブルで電子カルテに文字を打ち込んでいた淡い桃色の白衣を着た女性医師が、怪訝に眉を顰めてこちらを見る。


「ただ憶えていないとかではなく、本当に記憶が途絶してしまうと?」

「多分……そうかと思います。最初は二年前でした。現象が起きる少し前に、階段から落ちて、頭を打ったのですが……」


 私は今日に至るまでの、憶えている限りの情報を医師に話す。

 医師は私が話終えるまで口を開くことなく、カタカタとキーボードの打刻音だけが代わりに返事をしているようで、内心ちょっとおかしくて笑ってしまった。





 私は天川深南あまかわみなみと言う。現在、半年後に結婚を控えた二十七歳の会社員だ。


 今回話に出た記憶障害は、二年前から発症というべきか、私が認識したのが二年前というべきか。詳細に説明しようがないので、発端となりうる不慮の事故の話を出したのだが、果たしてそれが起因なのかも判断できなでいる。


 ただ、二年前の事故によって、その時勤めていた会社を辞めてしまい、現在は自由の効く派遣社員として生活をしている。

 正直都心の外れとは言え、2LDKの賃貸マンションの家賃を払うのは一人だと厳しいものがあるけど、どうしても必要なのだから仕方ない。女性は色々荷物が増えちゃうから。


 さて、本来なら記憶が途絶していると認識している時点で治療すればいいのに、なぜ今になって病院を訪問する事になったのは、前述にも出た結婚があるからだ。


 婚約者の太田昭宏おおたあきひろさんは、前の会社で知り合った別の会社で営業をしている三十歳の人である。

 最初は向こうから声をかけてきた──いわゆるナンパという形で付き合うようになったが、気が付けば私の方が俗な言い方をすればゾッコンとなり、それでもお互いが同意の上で結婚という方向へ進むようになった。

 まあ、少しを持ってはいるが、大事にしてくれてると思う。


 この精神科を紹介してくれたのも昭宏さんだ。今私の話に耳を傾けている女医も、顔の広い彼の知人らしい。

 そういった点では、多少気を張らなくてもいいのは良かったかもしれない。





「分かりました。根本的な原因はこれからのカウセリングで解明できればと。では、本日は内蔵疾患がないかを調べますので、後ほど採血を致しますが大丈夫ですか?」


 キーボードを叩く指が止まり、医師は私へと向き直ると、淡々とそう説明をしてきたので、私はコクリとひとつ頷いた。


 お声をかけるのでしばらく待合室へと告げられ、深々とお辞儀をして診察室を後にした私は、無人の待合室のベンチへと腰を落とし、小さく溜息を吐く。


「これで少しでも昭宏さんの心配ごとが減ればいいけど……」


 ポツリと独りごちると、ショルダーバッからスマートフォンを取り出し、通話アプリから診察が終わったとメッセージを入れる。

 すると間を置かず、お疲れ様、と昭宏さんから返信が来て、思わず笑みに唇が綻んだ。

 本当に彼は私を大事にしてくれる。優しい婚約者だ。

 ありがとう、とこちらから返事を返してる内に、天川さんと私を呼ぶ声がして、採血の準備ができたのか、と私は立ち上がり声の方へと歩きだした。


 血液検査をする部屋は、先ほどとは違い、ツンとした消毒液の匂いに包まれて、いかにも病院の検査室を呈している。


「天川さん、こちらにおかけください」


 白いナース服に身を包んだ目つきの鋭い看護師に示された丸椅子に座ると、小さな黒い合皮の枕が乗った台へと腕を乗せる。

 生ゴム色の駆血帯で肘の上をぎゅっと縛られる。程なくして肘の内側に青い血管が浮かび、そこを丁寧にアルコール綿でこすられると、次にチクリと異物が青い静脈の中に入ってくる。

 トクリトクリと脈動する度に、透明な試験管の中でどす黒い私の血が勢いよく踊る。

 ドクリドクリと何かが頭をよぎる気がして、なんだか気分が重くなっていく。


(ああ……。気持ち悪いけど、気持ちいい……)


 変な高揚感と沈滞感がぐるぐる脳内を巡り、私の記憶がすう、と遠ざかっていった。




 次に意識が明確になったのは、自宅の居間でだった。


「いつの間に帰ってきたのかしら」


 時計を見ると、病院に行った日の翌日に変わろうとしていた時間だった。

 私はまた記憶の断絶があったのかと、落胆する気持ちを抱えたまま、くう、とお腹が空腹を訴えてきたので、軽く何か食べようとキッチンへと向かい、小さなおにぎり二つと、インスタントのお味噌汁を作って、また居間へと戻るとテレビのスイッチを押した。


 ちょうど番組移行時だったのか幾つかのコマーシャルの後、夜のニュース番組のオープニングが始まる。


「最初のニュースは先ほど発生した殺人事件からとなります」


 硬い表情で淡々と告げる女性アナウンサーの言葉に耳を傾けながら、黙々とおにぎりを咀嚼する。


 概要としては、都内で働く看護師が帰宅途中に頚動脈に鋭利な物を刺されて死亡した、と。犯行に使用された凶器はまだ発見されてないらしい。

 自宅から離れてるとはいえ、女の一人暮らしだから、怖いものは怖い。


「……あら?」


 パッとテレビ画面に現れた画質の悪い写真を観て、私は思わず声をあげる。

 私服のせいか雰囲気が違うものの、今日病院で私の採血をしてくれた看護師だと気づいた。


 まだ何か言っているようだけど、多少ながらも接触した相手の死に、私は動揺を隠せなかった。


「……!」


 ふと、テーブルに置いてあったスマートフォンが振動し、驚きで肩を大げさに跳ねてしまう。吃驚してしまって、心臓もドクドクと鼓動を叩いてるではないか。


「こんな深夜に誰なのかしら」


 ブツブツ悪態を吐きながらテーブルの端末に浮かぶ名前を目にした途端、それまでの不機嫌な感情はどこかに行ってしまい、私は揚々と画面をタップして耳に充てる。


「昭宏さん。こんな深夜にどうしたの?」

「どうしたって……。ニュースを観てないのか?」

「ニュースって……もしかして、看護師さんの事?」

「そう。今日病院に行ったってメッセージ送ってきただろ? だから、心配になって」


 妙に焦ってる昭宏さんの声に、私の心はじんわりと甘く痺れる。

 この人は、こんなにも私の身を案じている。

 それだけ愛されていると知り、重くのしかかっていた動揺が霧散していった。


「ありがとう。私は大丈夫よ。心配してくれて嬉しい」

「そうか、お前が無事なら安心したよ。実は亡くなった看護師も俺の知り合いでさ。少し……いや、かなり動揺して深夜だと言うのに電話してしまってごめん」

「ううん。それは嬉しいから大丈夫だけど。昭宏さんこそ大丈夫? お知り合いが亡くなったから、不安じゃない?」

「確かに不安だけど、そこまで接点のある人じゃなかったし。あ……ごめん。お前も疲れただろ? こんな時間に変な電話して悪かったな」


 消沈した昭宏さんの声に、寝る前に声が聞けて良かった、と返せば、彼はホッとしたような吐息を落として、互いに挨拶を交わして通話は終わった。


 スリープ状態になったスマートフォンをコトリとテーブルに置くと、自分の物とは思えない程の低い声が零れ出る。


「ふうん。あの看護師さんも知り合いだったんだね、昭宏さん」


 まるで私の声に反応するように、誰もいない隣の部屋からカタリと物音がしたような気がした。

 何の音だろうと寝室とは違う、普段は鍵をかけている部屋の開錠をし、中へ入ると、床の上に普段使用している細身のボールペンが転がっていた。


「あら、鞄の中に入れてた筈なのにへんね」


 私は首を傾げつつボールペンを拾う。微かに鉄の匂いを感じたが、錆びてしまったのだろうか。


「買ったばかりなのに……。って、大丈夫みたいだけど、何だったのかしら」


 謎が深まったしまったけども、使えるのなら問題ないと居間にある鞄にしまった。




 看護師さんの事件は芳しい進展もないまま、季節は夏から秋へと、そして冬に入ろうとしていた。


 その間に、結婚式の招待状を手配したり、昭宏さんとの逢瀬を重ねたり、精神科での治療を重ねてたりしていたのだが……。


 あれは秋になって程なくだろうか。

 いつもの女医が診察の対応をしてくれなくなり、病院に問い合わせてみても体調を崩して暫く休診するとの話を聞かされた。


 せっかく感じの良い医師だったけど、これも医者の不養生なのかしら。


 昭宏さんにそれとなく尋ねてみたものの、何となく言葉を濁すばかりで、ちゃんとした返答が返ってくる事はなかった。

 後に執拗に問い質したら、どうやら殺人事件に巻き込まれて亡くなったそうだ。

 どんな風に亡くなったのかと言い募れば、昭宏さんは途端に不機嫌になってしまい、それ以上教えてはくれなかった。


 なんだか釈然とはしないけど、あの女医さんが気に入ってたのもあって、あっという間に病院とは疎遠となってしまっていた。

 今度昭宏さんに別の女性精神科医を紹介してもらおうかな。


 その後も昭宏さんの周りで不可解な事件が続いてたようだけど、彼は知り合いなだけで、何度か事情聴取に刑事が来たそうだけどもそれだけだったようだ。

 昭宏さんが事件に関わってるなんて、そんな訳ないわ。


 不可解といえば、私にもひとつあった。

 結婚後、今のマンションは引き払う予定だったので、家の不用品を片付けてた時の事。

 普段施錠している部屋から、笹原由子ささはらゆうこという、私が以前の会社に居た時の同僚のパスポートが出てきたのだ。


「なぜ、私の家に笹原さんのパスポートが……」


 笹原さんは、以前昭宏さんとお付き合いしていると噂された女性だ。その後に私と交際するようになったんだけど、急な心変わりの理由が私にあると信じ、最初は小さなイジメが、次第に記憶障害のきっかけとなった階段からの転倒へと繋がったのである。

 結局、それが原因で笹原さんは自主退社という名の解雇となったと、当時の同僚が教えてくれたんだけど、流石に男を挟んでの揉め事を知られ、いたたまれなくなった私も、その後退職したのだった。


「送るにしても、笹原さんも私と同じ、両親を早く亡くしてた筈」


 同僚時代に、彼女からそんな話を聞かされたのを思い出す。そんな所まで似てるのね私達って、私と同じ・・・・肩より少し長い黒髪を後ろに流しながら笑っていた。


 もし紛失してたら再発行すると考え、私は興味惹かれるまま、彼女がどんな国を旅行していたのかと見ようと、パスポートを開いた。


「あら、韓国に数回しか行ってないのね」


 渡航履歴には韓国の文字が二つ並んでいる。

 割と俗なタイプだったのね、と思ったものの、そういえば私の新婚旅行も昭宏さんの提案で韓国だったわ、と気づき、笑いが引っ込んでしまった。


「まあ、当時から私の真似ばかりする人だったから、誰かの真似をしたくて行ったのかもしれないわ」


 辟易しながら、不要の箱に嫌悪しかない同僚のパスポートを放り込んだ。





 結婚式前夜。


 私は自宅の冷凍庫から大きな肉の塊を取り出し、小さく切り分けるとフードプロセッサーへと次々と投入していく。

 スイッチを入れるとガガガとチタン刃が中の肉を挽肉状にしていくのを、ぼんやりと眺める。


 最近は、本当に便利になったものだと思う。

 まさか冷凍のお肉がこんなに粉々になるとは。

 やはり、家電量販店の店員さんに相談して良かった。


「これで冷凍肉は最後だったかしら」


 粉々になった肉をボウルに入れ、脂肪が溶けないよう冷やしつつ捏ねて、一口大に丸めたものを、二つ並べたフライパンに並べ焼いていく。

 今回は私ではなく別の存在達が食べるため、わざと玉ねぎや香辛料は入れていない。純度100パーセントの肉の塊である。


 予想していたよりも脂が多くなくて良かった。雑食の動物って、どうしても脂が臭くなっちゃうもの。

 溶け出した脂の中で踊る肉の塊を眺め、私は困ったように眉尻を下げた。


 できあがったハンバーグもどきはレジ袋に入れ、そっと家を出る。深夜とはいえども、ドアの開閉音で痛くもない腹を探られるのは嫌だもの。


 いつも使うエレベーターではなく、そろそろ替え時なのか、チカチカ点滅する非常階段を降りて向かうのは、徒歩三十分程歩いた公園。

 ハンバーグの熱であんまり寒さを感じなかったけど、到着する頃にはうっすらと温くなっていた。

 これなら、彼らも舌を火傷しないだろう。


「今日も餌を持ってきたよ」


 レジ袋をフリフリ振って囁けば、公園のあちらこちらから街灯に煌く沢山の目が私を見つめている。


「さあ、どうぞ」


 そう言って袋を地面に置けば、今だと言わんばかりに一斉に野良猫が袋へと飛びかかる。

 野生に還った猫は、肉が雑食のほうがいいのか、一心不乱に肉の塊に食らいつく。

 私は傍にあるベンチに腰を下ろして、その光景をニコニコと眺めていた。


 時間にすれば十分くらいか。ボロボロになった袋を最後まで舐めていた猫を見送り、私はベンチから立ち上がると、ビニールの欠片を持参したレジ袋へ残さず戻す。これは明日のゴミの日に回収される筈だ。


「さて、厄介だったゴミも片付いたし、後は明日の結婚式が済めば、私は幸せになれるわ」


 スマートフォンのライトアプリで周囲に肉の欠片が残ってないかを確認した私は、スキップしそうな程軽い足取りで自宅への散歩を楽しむ事にしたのだった。


 私を悩ます物はなにひとつない。

 自然と出た鼻歌を伴にして、私は家路を歩いた。




「ふわぁ……」

「昨日はよく眠れなかったようだな」

「そうね、よく遠足前とかも眠れなかったタイプだったもの」


 昭宏さんからの声に、私は熱い珈琲を渡しながら苦笑する。


 朝から昭宏さんが式場へと送ってくれるので、迎えに来てくれたのだが、今日一日はまともに食事もできないだろうかと思って簡単ではあるけども、トーストとハムエッグとサラダを提供していたら、思わずあくびが出てしまったのである。

 昨日は寝付いたのが明け方だったから、殆ど寝てないに等しいもの。


 私は自分の分の珈琲を飲み込む。苦味が眠気でぼんやりしていた頭をスッキリとさせてくれる。

 カフェイン効果って絶大だわ。


「お、この卵の焼き加減、俺好きだな」

「本当? 口に合ったようで良かった」

「お前とは食の好みが合うよな。嫌いな食べ物ってないんだ?」

「あるわ。……人肉……とか」

「え?」

「ううん、何でもないわ」


 対面で美味しそうに食事を続ける昭宏さん。

 きっと明日からは、こんな風に穏やかな日々が続くのだろう。



 食事を終え、簡単に洗い物を済ませ、式場へと行くため家を出ようとした所で思い出す。


「そうだ、昭宏さん。ひとつ約束してくれない?」

「これから結婚式場で誓い合うのに?」


 玄関の扉を少し開き、振り返った私の言葉に、昭宏さんはこの慌ただしい時になんだ、と顔に貼り付けたまま、不思議そうに首を傾げる。


「そう。神様は信用できないもの」


 昭宏さんは一瞬眉を潜めたけども、すぐに「どうぞ」と促してくれた。

 本当に、良い婚約者──今日からは旦那様ね。


 これから神に対して誓い合うけど、先に私に誓って貰わなくちゃ。

 鎖は早いうちがいいって、今の会社の先輩も言ってたし。私もそう思うもの。


「あのね、これから先、絶対に、他の女と、浮気しちゃ、ダメよ?」


 でないと、看護師や女医、それから天川深南過去の私を消さなきゃならなくなるもの。

 昭宏さんには試練を与えたくて、看護師も女医も、その他の女性も、あえて事件であるように見せたけど、あんまり効果なかった。


 そもそも、私の記憶断絶は、罪を犯した事によるショックによるものだと、女医を殺害した凶器のボールペンの中に黒くなった血液を見つけた時に、全て気づいてしまったのだ。


 それに、笹川由子・・・・さんも、昨日長い時間をかけて処理を終えたけど、また同じ事をする気力はないしね。


 まあ、どっちにしても外面を気にする昭宏さんも、自分が原因で妻が犯罪を起こしたとしても、まだまだ自由に遊びたい彼からすれば、殺されるよりは黙秘した方が都合がいいでしょうし。

 その前に鎖をつけたから、女遊びの癖も出なくなるでしょう。


 八方美人も損よね。昭宏さん?


「約束ね!」


 途端に顔を真っ青どころか白くさせた昭宏さんに、私は輝くような笑みを向けたのだった。




 私は──天川深南笹原由子。いえ、今日からは太田深南幸せな花嫁


 一生、大事にするわね、昭宏さん。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ミラーリング 藍沢真啓 @bloody-cage

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ