第2話

 俺は考えた。


 少年が何者なのか、ではなく、鬼退治するか否か。


 俺は鬼など簡単に殺してしまえるだろう。俺は問答無用で背負い投げをする。どれほど鬼が強かろうと、背負い投げは背負い投げなのだ。だが、本当にそれで良いのか。あの少年は俺が鬼退治をすることで何かを得るのだろう。だから俺にその話をしたのだ。とすると、俺が鬼退治することは少年の掌の上でダンスをしているということだ。ならばどうする。


 しかし考えたところで答えは出ない。出てきそうな答えすら、俺は背負い投げをしたのだ。


 遠くから犬の遠吠えが聞こえた。木々も騒がしい。上空では切るような風が鳴った。寝ていた小鳥たちが一斉に飛び立つ。


 まもなく、三時を迎える。


 俺が火をおこすと、木の影が長く伸びた。火の光はひどく心許ない。森の奥はまだ黒い。深淵から何者かが飛び出しそうで、つい前後左右に視線を動かしてしまう。


 鬼、と少年は言った。


 どれほど大きく、恐ろしいのだろう。俺の脳内に描かれる鬼は、牙をむきだし、三メートルはあるたくましい体で、大人ほどの棍棒を振り回していた。


 鬼を退治するか否か――俺が答えを出す前に、そいつは現れた。


 突如、背後に気配を感じると、頭より先に体が動いた。背にいる何者かを掴むと、体重移動と腰のひねりで背負い投げだった。


 そして投げる瞬間、俺は見た。


 その鬼の姿を。


 鬼は、子どもだった。俺に背負われる鬼は、角が一本で、全身が赤く、十歳の男の子のように小柄で――ダメだ、ダメだダメだダメだダメだ!いくら鬼であろうとも、こんな小さなやつを背負い投げなんて!簡単に、殺してしまうじゃないか!俺はまた何者かを殺すのか?命を奪い続けるというのか?なぜ俺には誰かと共存するってことができないんだ!


 俺の考えなんて俺の本能は聞いてくれない。ただひたすらに、背負い投げだった。


「————!」


 気づけば、俺は涙を流していた。この小さな鬼を殺してしまう罪悪感に。これから永遠に続くであろう殺しの道に。俺の手がどんどん赤く染まるその様に――。


 そして俺は、鬼を地面へと叩きつけた。


 涙で何も見えなかった。おうおう、と漏れる声。のどの奥が熱く、体中が針で刺されるような不快感で包まれていた。風は俯き、森は泣く。両手にしっかりと残る鬼の感触と温かさ。鬼が死んでもそれだけは永久に残り続ける。両手をひしと握りしめ、そのこぶしを地面へと叩きつけた。地は割れ、ひびが走る。ひびの先には鬼がいて――俺は目を疑った。


 涙を拭き、両の目で確認する。


「なんだい、そんなに僕のことをじろじろ見て。見世物なんかじゃないよ」


 鬼は、そう言った。


 鬼は地面にめり込むことはめり込んでいた。しかし鬼の角だけが地面に刺さるのみで、彼は逆さまになって生きていた。角一本で、体を支える鬼。よほど丈夫な角なのだろう。その角にも、傷ひとつなかった。


「やれやれ」鬼は動じるでもなく、地に手をつくと、「おいしょ」と角を抜いた。これで正真正銘の逆立ちだ。


 鬼は逆立ちのままで言う。


「何を驚いているんだよ。僕が誰だと思っているんだい? そんなに僕が生きていて不思議かい? 僕には僕が生きていることが当たり前すぎておかしいよ」


「……痛く、ないのか……?」と俺は訊いた。


「痛いとか痛くないとかそういう問題じゃないよ。鬼には痛覚がないからね。でも鬼は丈夫さ。特に角はね」


 鬼は言いながら足をついた。ようやく二足で立った彼を見ると、やはり小さかった。俺の胸ほどの身長と、角。剥き出しになった犬歯は、恐ろしいというよりもやんちゃな子どもを思わせた。赤い肌には虎柄のパンツのみを身につけ、髪は明るく、絵本の鬼のようだった。


 俺は、困惑してしまった。


 こんなことは初めてだ。


 背負い投げをして、怪我のひとつもしないだなんて、これまでの俺の人生では一度として目にしたことがなかった。だからどうしたら良いのかわからなかった。


 ふと、あの少年の言葉を思い出した。瞳の青いあの少年は、「だからキミはダメなんだ。キミは自分で何かをなそうとしない。自分から行動することに怯えている。すべて受動的なんだ」と言った。


 森が鳴った。吹き始める風が、焚き火の炎を大きく揺らす。影も揺れ、鬼の赤い顔を何度と影が横切った。ひとしきり風が吹くと、あたりは静寂に包まれた。俺の心音だけが騒がしい。


 だから俺は、生まれて初めての言葉を口にした。


「友達に、なってください」


 鬼は目を丸くすると、露骨に眉をしかめ、それから色々と考えるように腕を組むと、「仕方ないな」という風に手を差し出した。どうであれ、俺はそのことに興奮し、胸の中で温かな何かが流れているような気がしたのだ。俺も手を伸ばし、そして、


 背負い投げをした。


 鬼はまた角が刺さるのみで、怪我ひとつなかった。


 俺は、笑った。

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