芽吹く森

木村(仮)

芽吹く森

第1話

 ある日森の中で出会った熊に襲われかけたので背負い投げした。


 熊の頭は地面にめり込み、この獣は必死になってもがくが頭は抜けず、しだいに動きは弱まり、最後には死んだ。死んでしまった。首から上を地面にめり込ませ、仰向けになって死ぬ熊。ヒグマ。


 木の葉が鳴り、鳥肌のようなざわめきが広がった。


 熊の死体を前にして、冗談のようなむなしさを風と共に感じていた。こんな人のいない場所であっても、俺の居場所はないのだ。


 俺は生まれながらにしてよく背負い投げをする男だった。まず、生まれた俺を取りだした助産師を背負い投げして彼の指を脱臼させた。次に俺を驚かそうと画策した同園児を幼稚園時代に背負い投げし、彼は昼飯の山菜うどんを吐いた。それから小学校の担任を気絶させ、中学の時には不良のボスを投げ倒して中学は俺のものになった。


 ここくらいから俺の背負い投げは上達し、地面にめり込ませることができるようになった。俺としてはめり込ませないように、俺に近づく人々から距離を取り、警戒した。警戒が功を奏したのか、うっかり俺に触れたやつらは六メートル前方に吹き飛ばすだけに留まった。


 そして今、高校三年。俺が投げたやつらは三桁を越えた。


 俺は生まれながらにしてよく背負い投げをする男だった。


 だが俺は、背負い投げなどしたくはなかった。しかしそうはいかぬのだ。私の本能が背負い投げをさせる。何しろ、生まれたときから助産師の指を脱臼させるのだから、それはもう本能としか言いようがない。


 俺は俺に近づく者を背負い投げしてしまう。半径1メートル。その中に入る者は問答無用で背負い投げだ。そして運が悪ければ地面にめり込む。幸運なことに未だ人を殺したことはない。だが、そうも言ってはいられない。


 見よ、この熊を。


 俺は日に日に背負い投げが上手くなり、今では熊を殺すほどだ。


 三日ほど前、俺はこの背負い投げで人を殺しかけた。


 俺に惚れた女がいた。何に惚れたのかはさだかではないが、俺に惚れ、俺を追い、アパートまで突き止め、勝手に中に忍び込み、全裸で俺のベッドに寝ていた。俺は彼女のことは知らない。彼女はねっとりとした、いやらしい視線を俺に向け、布団をめくって手招きした。恐怖はあった。なぜここにいるのか、どうやって部屋に入ったのか、なぜ全裸なのか。だが彼女の桃色の乳首を見て興奮したことは揺るぎようのない事実だった。そして俺は、彼女の誘惑に負けてベッドへと歩んだ。


 それが運の尽きだった。


 手招きする彼女の手を掴むと、俺は背負い投げをした。


 背にやわらかな乳房を感じつつ、俺の意識とはべつに背負い投げをした。


 彼女は床を突き抜け、下の階の床も突き抜け、さらにその下の階の卓にぶつかって止まった。二階下の部屋では突如落下してきた女に家族の団らんを奪われ、この女は誰か浮気相手か、などと妻に問い詰められる男が見えた。全裸の彼女は真っ赤な服を頭から着て、その裸体を子どもたちが楽しげに触っていた。俺の股間は、ひどく屹立していた。


 血の気が引き、この過ちに耐えきれず、俺はアパートを飛び出した。俺はもう人のいるところに住んではならない。人のいない方へと走る。その道中、俺はポストや看板、自転車などを背負い投げし、俺の背後には俺によって投げられたものが並んでいた。


 そして今日。


 俺は熊を殺した。これまで三日間、野草ばかりを食っていた俺だ。初めて、背負い投げで命を奪ってしまったのだ。俺の両手には今も熊の感触が残っていた。


 その日、熊を食った。肉を石で切り、火をおこし、焼いて食う。肉は臭かった。だが久々の肉だということで腹におさめ、これまで投げてきたやつらの顔がフラッシュバックして、吐いた。たき火の中に俺のゲロが混じり、じゅぅわあと鳴った。


 晩のこと。俺が熊を抱いて寝ていると、瞳の青い少年が立っていた。日はとうに暮れ、星の光が彼の瞳を照らしていた。俺は怯えるが、どうやら彼とは十分な距離があり、背負い投げは発動しなかった。瞳の青い少年は「どうして怯えるんだい、キミはその熊を殺して食べちゃうくらい強いのに」と聞いた。俺は「俺が怯えてるのは俺自身だよ」と答えた。


「嘘だね」「本当だ」「キミがキミを恐れているのなら、キミを殺せばいいじゃないか。どうしてそれをしないんだい?」「俺は死ぬのもこわいんだ」「違うよ、嘘だ」「本当だ」


 俺が言うと、少年は肩をすくめた。


「キミはまだ諦めきれないんだ。死ぬのがこわいんじゃない。死ぬのがイヤなんだ。キミは人が好きだ。だからその人々からも好かれることを夢見て、諦められないんだ。キミは今だって奇跡を願っている。もしかしたら僕が奇跡の魔法を使って、キミの苦しみを取り除いてくれるんじゃないかって。キミは妄想家だ。自分の中で作り上げた幻想に現実が浸食されているんだ。ほら、まただ。僕がキミの考えを理解しているのは魔法の力――キミはそう考えているんだ。そして、その魔法で助けて欲しいってね。キミはいつだってそうだ。キミは誰かを当てにしている。誰かに助けて欲しいって願ってる。だからキミはダメなんだ。キミは自分で何かをなそうとしない。自分から行動することに怯えている。すべて受動的なんだ。キミがダメなのは背負い投げをするからでも女の子を二階下の部屋まで飛ばすからでも熊を殺すからでもない、自分で何もしないところなんだ」


 そして少年は、キミにチャンスを授けよう、と言った。


「鬼退治だ。この山には鬼が出る。深夜の三時ころかな。僕はキミに鬼退治をして欲しいのだけれど、キミの背中を押すようなことをしない。鬼退治をすればどうなるとか、そんなことはぜんぜん教えない。ただ提案するだけさ。やるかやらないか。それはキミ自身の問題さ」


 少年はそれだけ言うと、俺の返答も聞かずに、夢のように消えた。

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